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裁判で勝訴できないか敗訴する場合
(いわき病院事件裁判が社会に問う課題)


平成25年1月6日
矢野啓司・矢野千恵


3、原告敗訴(いわき病院勝訴)の場合

反対に原告「敗訴」の場合ですが、その際には、以下の項目を指摘して、声を大にして、世に問題の本質を問うことが望まれます。本件は、日本の精神医療の名誉に関わるだけでなく、日本の人権問題の本質が問われる事例です。いわき病院の論理で人権問題を業界の便宜や、既存の慣行等を理由にしてごまかすことは許されません。


(1)、11月23日の大規模な処方変更後の医療と看護に過失があった

裁判所が平成17年11月23日に実行された大規模な処方変更後の主治医渡邊医師の診察の怠慢と治療的介入を行わなかった不作為を容認したことは重大な判断の誤りである。また、いわき病院は根性焼きを見逃したことにより入院患者の顔面を見ない看護を行っており、看護の失態である。このような患者を無視した医療と看護を容認した事は、社会正義に反する。


(2)、抗精神病薬とパキシル突然中断後の診察拒否を容認した

統合失調症患者にとって、抗精神病薬の中断も、パキシルの中断も、共に病状が悪化して他害の危険性が亢進する。その両者を同時に中断した後でアセスメントを一回もせず、診察希望まで却下したことまでも合理的として容認した、「医学的エビデンス」を無視した判決である。


(3)、裁判所は「十中八九の殺人危険率」を容認した

多数の外出許可者が他害行為や殺人を行うことを前提とした「高度の蓋然性」の論理を裁判所は容認した。「高度の蓋然性」とは十人中八〜九人以上の殺人危険率を原告側が証明して始めて病院に責任が発生するという論理で、最初から大きな他害の可能性があることを前提とした意見であり、極めて反社会的かつ非人道的である。なお、仮に外出許可者が殺人を行う危険率を5%とした場合、殺人にまで至らない傷害行為を行う者は殺人者より一桁以上多い統計的事実があり、実質的に外出許可者の50%以上即ち過半数が、殺人に至らないとしても重大な人身傷害事件を行うことになり社会は震撼する。そもそも、社会が許容すべき殺人危険率(高度の蓋然性)という主張を行うところに、他害事故の発生に寛容ないわき病院の反社会的な姿勢がある。


(4)、裁判所は添付文書記載の危険情報を読まなくても責任は無いと判断した

裁判所は、医師が薬に添付記載されている注意事項という、当然の確認義務を果たさなくてもかまわないと容認した。薬剤添付文書は、薬剤に必ず付いている「一般的な情報」である。そもそも、パキシルを突然中断する危険性を国立香川大学医学部付属病院の精神科外来担当医師も務める、大学病院レベルの高度な医師である、渡邊医師が知らなかったでは理由が通らない。抗精神病薬を中断した危険とパキシルを中断した危険を重ねて、その上で緩和作用があったアキネトンを断薬してプラセボ試験を行ったことは、医療とは言えない無謀な治療である。


(5)、裁判所は、医師が結果診断をしないプラセボテストを容認した

プラセボテストとは、そもそも患者の同意なく行われる医療であり、主治医には慎重な観察が義務づけられる。主治医の渡邊医師は計画時に「3日間試す」と記述したが、プラセボ筋注を漫然と継続して一週間も診察をしていない。A鑑定意見(I)でも「プラセボ効果消失」を認めていた。主治医は判断を誤ったが、そもそもプラセボ効果判定を、渡邊医師自ら行わず看護師の観察に頼ったのは医師法違反である。


(6)、裁判所は、緊急事態で異常を訴える入院患者を放置しても良いとした

裁判所は、異常を訴える患者を無視して診察しない主治医の不作為を容認した。医師が診察もせず、必要な記録が無いことを良いことにして、異常がなかったと主張することは、許されない。それでは入院して治療を受ける意味がない。危険な処方変更後に、渡邊医師は真面目に診察していない、二週間で夜間に睡眠薬を飲まされた患者を一回診察しただけである。このような医療がこの日本で許されるとしたら、判決の意義が問われる。


(7)、裁判所は、根性焼きの認定で判断を間違えた

裁判所は、根性焼きが事件前に存在したことを認定しなかったことで、患者の顔も見ない、いわき病院の医療と看護を容認した。これでは、患者は適切な医療を受ける権利が否定されることになり、許されない。


(8)、精神科開放医療が国策でも、市民の犠牲を容認することは間違い

精神科開放医療が国策であるとしても、市民生活の安全と個々の市民が健康に生きる権利は人権の基本で侵害されてはならない。精神科開放医療と市民生活の安全確保は、不可能なことではない。わが国の精神科医療機関の世界的な精神医療の常識から外れた、自己都合と怠慢による不作為をよしとする弁明を、精神医療独特の論理による公共の福祉や利益を理由にして容認する事は許されない。世界各国で実現されている事実があり、また市民生活の安全を確保する精神科開放医療が過重な労働と責任を病院側に負わせるものでは無いことが事例として判明している。世界で実現可能で、日本で実現できないとは、日本の精神医療の信頼の問題である。国が、市民生活の安全を最大限確保する配慮を怠ることは許されない。


(9)、「一般病院の一般の医師だから許される」は非常識

医師の知識不足、錯誤、不作為や怠慢を、「一般病院の一般の医師」を理由にして許せば、日本の医療は低位平準化する。この論理は「悪貨が良貨を駆逐する状態」を許す論理である。このような論理に「過失責任を問わない」というお墨付きを与えるようでは、日本の医療は荒廃するに任せられることになる。「事情」を理由にして過失責任を逃れる論理は乱用されてはならない。

いわき病院の論理が判決で過失責任が無いとして許されるなら、誰でも被害者になり、患者はろくな治療を受けられないことになる。しかも判決に基づいて、まじめに患者をみていることが馬鹿らしくなるという、精神医学界にとって負の作用も出てくる。患者と市民の双方にとって良いはずはない。さらに、日本の精神医学にとっても良いはずはない。日本の精神医療を破壊するのは「不始末に責任を取らせないことから始まる」と指摘する。


(10)、鑑定人の権威の高さで判断するのは間違い

いわき病院事件裁判ではA鑑定人の出現で、鑑定人の権威の高さが判決の動向に影響するという見解が精神医学界の一部から原告矢野に聞こえた。「裁判官(特に、上級審)は精神医学的な価値判断はできず、鑑定者の権威の高さが判決を左右する」というものである。またこれはいわき病院側の裁判戦略であるとも推察できる。

A鑑定人はイギリス精神医学の権威であり、A鑑定書(I)ではイギリスの事例を多数引用して「危険性(dangerous)概念からリスク(risk)概念への変化」等の持論を展開した。しかしデイビース医師団鑑定人の反論が提示されると、「イギリスの経験は日本における裁判で過失責任の判断には適用できない」と主張を換えてA鑑定書(II)及び(III)を提出した。このA鑑定人の複数の論理が変換した経緯を矢野夫妻は詳細に検討しており、仮に判決でA鑑定人の主張が引用された場合には、A鑑定人の論理と事実認識の自己矛盾を指摘することが可能となるはずである。

A鑑定人は「野津純一が殺人事件の犯人として逮捕されたことを病院が知った以前の部分がもっとも重要」として論理を展開したが、結果的に裁判の過程で判明した事実やいわき病院が訂正した12月3日の診察等の事実を取り違えたままで、鑑定意見書(I)、(II)、及び(III)を提出し続けた。裁判所の判決がA鑑定意見に依存する場合には、その根拠となったA鑑定意見書で使用された論理と事実を厳しく再確認してその結果が公表される必要がある。

A鑑定人の最大の弱点は、権威をよりどころにして原告矢野が指摘した事実関係を検討しなかったことである(精神医学の大家のA鑑定人は、いわき病院が矢野夫妻に決めつけた「他者の管理下」、「犬が鎖につながれる」、「猛獣的な気持ち」等という表現に惑わされて、原告矢野の実像を誤認し、原告矢野の指摘を無視し読むに値しないとしたものと推察される)。また、初期の資料が重要であるとしてその後発掘された証拠などを無視したため、A鑑定書(I)が作成されるまでの5年間にわたる審議の過程で裁判初期にいわき病院が証拠提出したが、その後の審議で医療記録に数々の訂正が行われた事実を忠実に反映しない鑑定意見書を提出したことである。

A鑑定意見書(I)の一般論は精神医学者の鑑定意見として尊敬するべき内容であるが、各論は一般論と異なり矛盾点が多い。(一般論はイギリスの文献に頼り、デイビース医師団鑑定書が提出された後で、各論の主張は後退した。なお、イギリスの理論を一般論の論拠にしておきながら、各論ではイギリスの事例は「イギリスにおいてのみ理解なもの」としてわが国精神医療の参考にはならないと主張した。各論に援用できないのであれば、学術論文ではない鑑定意見書としては「一般論は空論」と自ら主張したに等しい)。また、A鑑定書(II)、(III)には精神医学者の鑑定意見とは理解しがたい記述が多数あり、特にA鑑定書(III)は法律家が作成した準備書面に等しい内容である(なお、A鑑定書3作の署名は全て同一筆跡である)。いわき病院事件裁判の全てが終了した後で、裁判公開の原則に従って、A鑑定意見書(I)、(II)及び(III)は全て公開されるべきである。

(注:デイビース医師が本件裁判で原告矢野の助言者であることは最初から明示してあったことである。鑑定意見で登場したことで、驚くことではない)


(11)、最高裁判決「島田裁判官、守口裁判官」の補足意見に該当する


ア、

「(医師の医療行為が)著しく不適切不十分な場合」
(平成17年最一判平成17年12月8日判決の島田裁判官の補足意見)

イ、

「医師の検査、治療等が医療行為の名に値しないような例外的な場合」
(同判決の才口裁判官の補足意見)

いわき病院の医療は、「(医師の医療行為が)著しく不適切不十分な場合」と「医師の検査、治療等が医療行為の名に値しないような例外的な場合」に該当する。このような医療に責任を取らせることがなければ、精神科医療で治療を受ける患者は悲惨な境遇に置かれて救済されることがない。



4、精神科医療と公共の福祉と利益

いわき病院事件裁判の過程で、原告である私たちは「『事情』による請求棄却」の怖れをかいくぐって地裁結審まで到達しました。しかし、今後地裁のみならず上級審で判決に至る過程で「事情により判決が左右される可能性」があるでしょう。いわき病院はそれを期待して裁判戦略を立てていたと思われます。

KMいわき病院代理人の主張は「仮にいわき病院の精神科医療に錯誤や失態があったとしても『事情』であり、過失と認定されるまでには至らない」です。またA鑑定人は「日本の精神医療を破壊する」とA鑑定意見(I)を締めくくりましたが、その意味は「精神科医療は公共の福祉と利益を伴っており、その医療に過失が認定されることがあれば、いわき病院と同水準の精神科病院は日本全国に数多あるため、影響が大きすぎる。従って過失認定がされてはならない」です。この論理でこれまでの精神障害者による殺人事件は裁かれてきました。果たしてそれは日本の精神障害者の治療及び人権問題を改善する目的に照らし合わせて正しいのでしょうか?

この問題を考える参考として、以下に記述したものは特に重要ないわき病院の偽証から選んだ数例です。


第1の偽証(野津夫妻は放火他害履歴を隠蔽したと主張)

野津純一が平成16年10月1日にいわき病院に入院する前に、野津夫妻は息子純一の放火暴行履歴をいわき病院に正直に申告しました。ところが、渡邊医師は「聞いていない」、「いわき病院が野津純一に暴行の可能性を予見できなかったのは、両親の責任だ」とリスクアセスメントもリスクマネジメントもしなかった責任を野津夫妻になすりつけました。記録があるにもかかわらず、自らの基本中の基本に関わる精神医療の不作為を他人に転化した欺瞞です。

渡邊医師はいわき病院最終の第13準備書面(P.28)でも「純一の放火他害履歴情報は、いわき病院受診時に純一及び両親から主治医に対して一切伝えられていない」と主張しました。いわき病院は「主治医」と殊更に主張することで、「入院前問診で勤務医やSW(ソーシャルワーカー)に申告した記録があっても、主治医が知らなかったのだから、病院としては承知していない」との主張です。これはいわき病院の内部情報処理に問題があった事、及び主治医が受け持ち患者に関して病院が持つ記録すら確認せずに治療に当たり「精神医療として著しく不適切不十分な場合」であることを証明します。なお、渡邊医師は「患者との関係を悪くする可能性があるので放火他害履歴を質問しない」と証言した記録があり、そもそも「自らの意図的な不作為」を理由にして弁明することは正義に反します。また渡邊医師は本件裁判では数々の偽証をしており、そもそも「主治医が聞かされなかった事実」を確認する手段がありません。これは渡邊医師自ら行った医療怠慢の自白です。


第2の偽証(根性焼きを否定)

いわき病院は「野津純一が入院して以後14か月に渡り事故を起こしていなかったのだから、いわき病院の医療と看護に責任は無い」との立場です。しかし、いかなる事故も、直前の状況と当事者の処置が最も重要です。例えれば、50年間優良ドライバーであったとしても、重大な人身事故を引き起こせば、過失責任を必ず問われます。いわき病院は野津純一が自傷した顔面左頬の根性焼きを医師も看護師も誰も発見しておらず、特に、入院患者に頻繁に接しているはずの看護が「看護とは言えない例外的な状況」で、「著しく不適切不十分であった」ことは明白です。


第3の偽証(処方薬の危険情報と一般病院の一般の医師の論理)

慢性統合失調症患者で放火他害履歴のある野津純一に抗精神病薬を中断することはおよそ精神科医師であれば行ってはならず、特に事情があると判断して中断する場合には、主治医は慎重な診察を頻繁に行うことが義務ですが、渡邊医師は怠りました。

抗うつ薬パキシルの中断をしていたことをいわき病院は認めるまで何年も渋りました。またパキシル中断の危険情報は一般病院の一般の医師では平成17年12月当時には知ることが困難であったと主張しました。しかし、パキシル中断の危険情報は薬剤の添付文書に事件の2年4か月前から記載され、事件当時には誰でも容易に知ることができる市販本の「治療薬マニュアル」(医学書院)にも記載された一般情報でした。

更に大学病院水準にない一般の病院の一般の医師の渡邊医師が知ることは不可能であったというのがA鑑定人の主張ですが、渡邊医師は国立香川大学医学部付属病院精神科外来担当医師を兼務しておりました。パキシル中断の問題では何回も偽証を繰り返しました。そもそも、一般の病院の一般の医師でなくても、非医師の一般人でも容易に知ることができる公開情報を、殊更に大学病院水準の医師に限定することは欺瞞です。専門医の不勉強の怠慢を容認する判例を作ることになれば、医療の荒廃を導きます。

渡邊医師は、プラセボ試験のアキネトンを生理食塩水に代えた筋肉注射を開始してから一回も患者の診察をしておりません。また看護師に対しては大規模な処方変更を行った事実を明確に伝えず、処方変更に伴う看護上の注意事項や観察事項の指示もしておりません。そして重大な処方薬の中断を重複していたにも拘わらず診察拒否をしました。その理由を、「看護師等の医療スタッフから異常の報告が無かった」としておりますが、そもそも看護師は野津純一が顔面に自傷した根性焼きを発見しないほど杜撰な看護を行っていたことは明白です。これは渡邊医師の医療が「医療行為の名に値しないような例外的な場合」であり、かつ「著しく不適切不十分な場合」に適合する事実です。

いわき病院と渡邊医師は重要な事実で虚偽証言を繰り返しました。このような医療が医師の裁量権の範囲にあり、責任を問えないとすることは道理の逸脱であり、社会正義に反します。その上で、「事情判決」をいわき病院は期待しており、A鑑定人は「それでもいわき病院に過失が認定されることがあれば、日本の精神科医療は破壊される」との見解です。これは、「だから、野津純一に対する治療で多少の不始末があったとしても、いわき病院に過失責任を負わせないことが、社会の利益に適う」という「事情判決」を求める主張です。

野津純一は過去に放火暴行履歴がありいわき病院はその記録を持ち、その上、いわき病院内でも入院直後の平成16年10月20日に看護師に襲いかかった事実がありました。このような場合にいわき病院は野津純一が任意入院患者であっても他害リスクの可能性を調査分析(リスクアセスメント)する義務があります。その上で、抗精神病薬の中断、パキシルの中断、またアキネトンの中断(プラセボテスト)はどれも患者の攻撃性を亢進する可能性が極めて高い薬事処方であることは平成17年12月当時に「一般の精神科医師」にはよく知られていた事実でした。主治医は、非常識にも、通常の医療手続きでは考えられない3薬を同時にしかも突然中断するという大規模な処方変更を平成17年11月23日に実行した後では、野津純一の状況の変化をきめ細かく診察して必要であれば治療的介入(リスクマネジメント)を行うことが当時でも当然の精神科臨床医療の状況でした。これは医師の治療が医療行為の名に値しないような例外的な場合に該当します。

いわき病院は矢野真木人が殺人されることまでは予見できないので、予見義務違反ではないという主張です。この論理は社会が受け入れてはなりません。そもそも市民の誰かが殺人される危険性が大規模な処方変更で亢進していたにも拘わらず、主治医の診察怠慢により適切な対応が取られなかったことが過失を構成する要素であり、たまたま殺人される誰かが矢野真木人であった偶然性はいわき病院の責任を軽減し免責する理由にはなりません。更に、いわき病院は外出許可を与えた患者の10人中8人から9人以上が殺人を行うという「高度の蓋然性」が証明されなければ、外出許可を与えたいわき病院には責任は無いと主張しました。これは殺人者を野に放つ論理です。この主張の背景には、市民の生命を犠牲にするいわき病院の論理があり、極めて反社会的です。

いわき病院と渡邊医師は殺人の危険性を最小限にする精神医療的努力義務を果たしておりません。危険性がゼロにはならないから何もしないでは、精神科医療機関及び精神保健指定医に課せられた公共の福祉に対する責任と義務を無視しており、その結果として矢野真木人はある日突然命の火を消されました。野津純一が最初から矢野真木人をターゲットにしていないので、いわき病院の責任が軽減される理由はありません。「誰でも良いから人を殺す」という状況に至っていた野津純一の重大な異変の兆候(根性焼き、激しいイライラ、関係被害妄想、幻聴など)を医療と看護で全く発見することがなかったいわき病院と渡邊医師に重大な過失責任があります。11月23日に抗精神病薬(プロピタン)とパキシルとアキネトンを中断した医療が攻撃性を亢進することは常識であり、その上で診察に怠慢があり適切な医療的介入を行わなかった渡邊医師には殺人を導いた直接責任があります。

いわき病院は「事情」により、過失責任を回避されるべきでしょうか。いわき病院のような入院患者に無謀な医療を行い、その上で、主治医が診察も行わない無責任な医療が、精神科医療の福祉と利益を損ない、精神科医療を破壊するとして、過失責任を免除されることが正しい社会的な処分と言えるでしょうか。残念ながら、それがこれまでの日本における精神科医療に関連した事件に対する法廷判断の潮流でした。しかし、日本の精神医療を改善して、少なくとも、平成17年12月当時の国際水準並みに向上させるという公共の福祉と利益に適うためには、いわき病院と渡邊医師に過失責任を認定することが前提となります。もし、「一般病院の一般の医師」だから少しぐらいの不始末には責任を負わせないという配慮の論理が働くようであれば、日本の精神医療は低位平準化して荒廃するでしょう。大切なことは、精神科病院施設が近代化され立派になる事ではありません。その中で行われる精神科開放医療が真に患者の治療に効果を上げる誠実なものになる事です。

なお、KMいわき病院代理人は札幌地裁判例(平成24年2月20日)の病院側代理人であり、自らの勝訴事例をいわき病院事件でも参考にするべきとして、裁判結審前日に法廷に提出したものです。札幌地裁は、原告側敗訴の案件ではあるが「事情判決」の処分を行わず、理路整然と原告側が敗訴する理由を述べました。今日の医療裁判では、公共の福祉や利益を理由にして、論理に飛躍がある判決を下すことは時代に則していないと考えます。



5、いわき病院事件裁判の社会的な意味

私たちは民事裁判を提訴した直後に、ある報道関係者から「民事裁判は賠償金を取るための欲得の行為であり、社会的公共性はない」と言われたことがあります。

私たちは、事件発生直後から「事件の本当の原因者はいわき病院と渡邊医師であり、この2者は刑事裁判で訴追されなければならない」と考えていました。しかしながら、精神医療問題の内容の複雑さから、起訴されるには至らず、民事裁判を行わなければ過失責任を追及して確定する事ができない状況に置かれました。「損害賠償請求事件」という民事裁判である以上は、私たちが正当と考える矢野真木人の命の対価の一部を請求します。しかし、そのことで、「息子の命を材料にした、欲得の裁判」と言われる筋合いはありません。そもそも、民事裁判では矢野真木人が失った人生の価値を償うことはあり得ないのです。しかし私たちは、社会のルールに従って、社会が定める手続きを励行します。それが理不尽に命を奪われた矢野真木人の人権を確認する、両親である私たちに許される日本国の制度であるからです。

いわき病院事件の本質は、この日本で、精神障害者に対する人権を尊重した精神科医療が行われていたか否か、行われていない場合には、過失責任が発生するか否か、という問題です。そして、精神障害者が原因者となった殺人事件が発生した場合に「殺人された健常者の人権が尊重された法手続を執行することが、この日本で約束されているか」、また「法手続きが励行されているか否か」という問いかけです。無責任な医療から生じた第三者に対する殺人を容認する事が精神医療の公共の福祉に益するという論理は間違いです。精神科開放医療の究極の課題は、精神障害の既往歴がある患者の寛解と社会参加です。社会参加すれば、法的責任能力を有し、それを行使することが人間として人権を尊重される姿です。精神科開放医療の可能性は平等な人権が尊重される人間関係が社会で定着することを促進することである筈です。いわき病院事件裁判は「何がその阻害要因であるか」を問い直す裁判でもあるのです。

このため、私たちは野津夫妻に協力を求め、共同原告としていわき病院と渡邊医師の責任を追及して参りました。殺人被害者遺族である矢野夫妻だけの主張では今日の日本社会から人権問題の正当性を理解してもらい、そして受け入れられるまでには至らないと判断して、この問題が極めて重要で普遍的な人権問題があることを提起するために、共同作戦を提案しました。これは、茨の道であり、私たちは敢えて、茨(トゲ)を踏んで、私たちの血を流しながら、課題を世に問い続けます。これは野津ご夫妻も同じ気持ちであろうと考えます。皆様には、この「やらざるをえない、やるせない覚悟」に、ご理解をいただきたく存じます。



 
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