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◎猪瀬賞
今村 泰悠さん(東京都立小山台高等学校2年生)


●選んだテーマ「怨望」


ざっと目次を眺めてみた時、ふと見慣れない言葉が目に飛び込んだ。『怨望』――うらみに思うこと。手元の電子辞書で大まかな意味を拾いつつ、第十章へページをめくる。元々、人の心情に興味のある自分は、その直截な言葉に惹かれて何よりも先に『怨望』の章を読み、結局は感想文の主題として扱う決心をつけた。

諭吉の言う「怨望」という心理状況は、現代日本においても形を変えた状態で、人間の心に巣くっているように思える。まず真っ先に脳裏を掠めたのは、今や日常の一部となって久しいインターネットの存在だ。世界は縮小化され、誰もが各々に発言権を擁し、ネットなしでは考えられない距離を繋いでの談笑や議論を可能とした自由な――あるいは、表面上そう思えるだけの――世界。圧倒的な情報量を含め、そして今も尚広がり続けている網の存在感は、ともすれば宇宙の印象を重ね合わせてしまいそうになる。他にも検索能力の有能さや使用する際の手軽さ等、数々の利便性が想像に難くなく思いつけるのも、既に自分が渦の中に呑まれているからだろうか。いずれにせよ、その使い勝手の良さが生活空間に浸透していることは事実であり、それ故の横行も当然のように発生する。

学校裏サイト、掲示板に羅列された誹謗や中傷の嵐。もはや月並みとなったネットの暗部も、「怨望」を念頭に置いて考えると少し見方が違ってくるかもしれない。別の言い方をすれば、発言にも種類があるということだ。批判と誹謗の差が、そのまま怨望の有無によって色分けされるとは思わないが、あたりをつけるのに関しては不足ないだろう。コメントの中には、勿論、建設的な意見もある。実直な意見を交わすことで発言者と対象者の両者が、より良い状態に昇華する場合もあることだろう。対比して怨望に絡め取られた発言との差は歴然だ。いつも一方通行の理論や文句で自己満足に終始する。悪意なきコメントとは対蹠的に破壊性があり、筋の通らぬ片務を影から押しつけ、挙げ句、対象を「死ね」と唾棄して恥じない温厚っぷり。もっとも、表情を必要としない世界であるので、温厚の表現に意味はないのだが。

そこまで綴ったところで、ただ……という思いが頭に差し込んだ。自分はどうなのだ、と。機会を得たとばかりに溢れていく言葉、例に挙げた事案と同様、お互いに顔の見えない相手を矛先にした感情が、どれほど怨望とは違うのだ、と。

怨望の源は、人が本来の働きを抑圧された際に生じるものという。即ち、人間の自由が奪われた状況で、心の中に怨望が生まれる。しかし、ならば何故、言論や表現の自由をある程度保証されたインターネット界で、そのような歪みを引き起こしてしまうのか。

思うに、意義の捉え方次第で、「自由」は変容してしまうのだろう。諭吉の理論に倣うなら、人間が例外なく持つ五つの性質のバランスと、課せられた義務を認めることで人は初めて自由を勝ち取ることができるらしい。その思考はいつの間にか変換され、自分の頭蓋に「幸福は自分の努力で勝ち取れ」とという響きを残した。

感想文を書くことで、気付かされるものがある。義務を果たし、自由を手にすれば、怨望が根付く余地がなくなる。この感慨を糧にするだけでも、無闇な恨みを抱かずに済むはずだ。怨望によって理性を見失い、両者が停滞してしまうのは、もったいないことなのだから。





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