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いわき病院事件(第4回)公判報告


平成19年2月12日
矢野啓司・矢野千恵

1、公判は非公開

いわき病院事件の第4回公判は10時30分開廷でした。法廷は前2回と同じラウンドテーブル法廷でした。法廷室の内部には、円卓と柵で隔離された傍聴席があります。開廷の直前に公共放送のテレビ記者外が取材のため、法廷の傍聴席に入ろうとしましたが、裁判所書記官より「非公開」を理由にして、入室を断られました。このため、公判は裁判官・副裁判官・裁判所書記官・被告純一代理人弁護士および矢野夫妻が着席し、原告代理人と被告いわき病院代理人の双方の弁護士は電話で参加しました。なお、傍聴者は誰もおりませんでした。

公判は、被告いわき病院から提出された答弁書である「第1準備書面」を公判資料として採用するか否かの「公判準備手続き」でした。この公判準備手続きであることが非公開の理由だそうです。

被告いわき病院から提出された第1準備書面は、第4回公判の前日の15時21分に原告代理人弁護士を通して原告側にFAXされました。このため、私たちは高知に居住して、代理人弁護士は広島在住で、裁判は翌日の朝に高松で行われるために、原告と原告代理人弁護士との間では充分な事前の協議を行う時間がありませんでした。私どもは、7日の朝、高松に向かう車の中で、被告いわき病院の主張の中にある重大な記述に気がつきました。その記述とは、以下の通りです。

「原告が、インターネットあるいはマスコミ等を利用して本件に関する偏向的かつ虚構に基づく悪意に満ちた情報を一方的かつ大量に垂れ流している行動には応分の非難がなされるべきものと思量する。」

第4回の公判が開始される直前に私どもは、マスコミの記者が法廷に入室するのを排除された様子を目撃しておりました。これまでの法廷では、私たちは原告代理人弁護士に発言を任せて、原告が直接発言することはありませんでした。しかし、矢野啓司は今回の裁判では特に発言を求めて、「被告いわき病院の第1準備書面にマスコミという言及がある以上は、今後は公開裁判としてマスコミの傍聴を認めるべきである。」と発言しました。しかし、裁判長から「第5回公判も手続き処理であるため非公開」と処理されました。

確かに、ラウンドテーブル法廷では、弁護士は東京と広島の遠くの弁護士事務所から電話で対応しています。それでも、弁護士不在ではありません。弁護士の声は、拡声器で法定内で明瞭に聞くことができます。被告純一の弁護士は法定内に出席しました。本人が法廷に出席するか電話で済ませるかは、弁護士の都合です。従って、弁護士本人が在廷しているか否かは非公開の理由にはなりません。

それでは、単に「法廷事務手続き」だからという理由で非公開が許されるのでしょうか。今回被告いわき病院側から「マスコミ等を利用して本件に関する偏向的かつ虚構に基づく悪意に満ちた情報」と提出された書面に書かれていました。実質的な協議はどんどん進んでいます。第4回公判では「マスコミ等の報道も本件いわき病院事件の裁判では課題として検討されるべき」と被告いわき病院が主張したことになります。マスコミも被告いわき病院が指摘する「裁判の当事者」なのです。マスコミ報道が裁判の当事者である限り、マスコミなどが傍聴する裁判が行われることは必須の条件です。

2、言論の自由

被告いわき病院が主張した「原告が、インターネットあるいはマスコミ等を利用して本件に関する偏向的かつ虚構に基づく悪意に満ちた情報を一方的かつ大量に垂れ流している行動には応分の非難がなされるべきものと思量する。」という言葉には、幾つかの問題点があります。以下にその問題点を逐次論じます。

1)主張に具体性がない
  被告いわき病院は{「偏向的」「虚構」「悪意」}の三つのキーワードを使って非難しておりますが、具体的に何が{「偏向的」「虚構」「悪意」}であるか例示してありません。抽象的な言葉の羅列をして非難しているのです。このような具体性を持たないで抽象的な言葉で相手の言論を封じようとするのは、言論の自由を侵害する誹謗中傷にあたります。

いわき病院の誹謗中傷の槍先は原告矢野の発言とマスコミの報道の双方に向けられています。原告が被告いわき病院に指摘していることは、「精神障害者の人権が被告いわき病院の実体では、本当は守られていないのではないか」という疑問です。被告いわき病院は原告が具体的に指摘している事柄に対して誠実に答えるのではなくて、抽象的な誹謗の言葉を返しているのです。このことは、被告いわき病院が考えている「人権の理解」に問題があるのではないかと疑わせるに充分な、今回の被告いわき病院の答弁書です。

被告いわき病院は今回の答弁書を「第1準備書面」と言っております。答弁書とも言わず「準備段階の文書だから」と後からの逃げ道を考慮しているのではないかとも疑われる文書提出の仕方です。このような基本的なところでも、正々堂々と主張しないところに、被告いわき病院の体質が見えていると思われます。

2)インターネット使用制限
  被告いわき病院は原告がインターネットで通信している内容に踏み込んで、{「偏向的」「虚構」「悪意」}のキーワードを用いています。誰もが承知していることですが、インターネットでは「メールのやり取り」という私信が大きな部分を占めています。被告いわき病院が裁判で提出した書面は「不正な私信の閲覧が行われたのではないかと疑われるべき内容」です。仮に、不正な私信の閲覧が行われていなかったとしても、個人としてインターネットを通じて行う通信の自由は何人も制限できません。そのことは通信の内容の不可侵性と通信の量に制限が加えられないことを意味します。被告いわき病院が個人の通信の自由を侵害する発言を裁判の場でしても、そのことが具体的な人権侵害の問題であると気がつかないことが本質的な問題です。原告は被告いわき病院で精神障害治療を受ける患者ではありません。原告の私たちは被告いわき病院から通信の自由を制限される理由は何もないのです。被告いわき病院は裁判所へ文書を提出して重大な個人の人権侵害を行ったことを知るべきです。

3)一方的な行為でしょうか
被告いわき病院は「一方的かつ大量に」と言います。しかし被告いわき病院長は記者会見を求められても、取材の申し込みを受けても逃げ回って、何も答えていないのです。被告いわき病院長が記者会見に応じたのは被告純一が逮捕された翌日の平成17年12月8日の早朝だけでした。その時も、テレビ局各社には「顔を放送しないこと」を条件にしたと聞いています。矢野真木人が殺人されて以降、刑事裁判手続きの重大局面の度に、原告である私たちはテレビ局や新聞社から取材を受けました。これらのマスコミ各社は私たちを取材するだけでなく、被告いわき病院長にも取材申し込みをしたと聞いています。ところが、被告いわき病院長は代理人を通した対応をする事に固執して、本人及びその代理人からは社会的に報道されるべき有益な情報は何も発言されておりません。このように発言の機会が与えられたにも関わらず発言をしないでいて、「一方的な報道」と言うのは矛盾しております。また手前勝手が過ぎるとも指摘します。報道が一方的だと主張するなら、今からでも遅くありません。被告いわき病院長は本人自身が堂々と世の中に向かって、正しいと思うべき自分の主張を世の中に向かって発言する事を助言します。私たちはそれを望んでおります。

被告いわき病院はマスコミの報道を「偏向的かつ虚構に基づく悪意に満ちた情報」と言っています。マスコミに求められても記者会見を拒否し続けて自分の主張を何もしないで、「偏向的かつ虚構に基づく悪意に満ちた情報」と決めつけています。マスコミの報道が「偏向的で虚構に基づいている」と考えるのでしたら、被告いわき病院は自ら考える正確な情報を発信して正さなければなりません。「一方的な報道」と言う逃げの道はつくって逃げてはなりません。

4)マスコミの取材と報道
  マスコミの報道は、原告である矢野が行うのではありません。被告いわき病院は「マスコミ等を利用して本件に関する偏向的かつ虚構に基づく悪意に満ちた情報を一方的かつ大量に垂れ流している」と言います。これはマスコミの報道が{「偏向的」「虚構」「悪意」}と言っているに等しいことです。マスコミは独立した言論機関です。マスコミ各社は独自の視点で取材をして、編集して、ニュースや情報として世の中に伝えているのです。このような基本認識を被告いわき病院は持っていないのでしょうか。被告いわき病院がマスコミの報道を裁判を通して制限しようとしていることは、重大な問題です。

5)精神障害者の事件とマスコミ報道
  これまでわが国では精神障害者が事件に関与している場合には、報道規制の本質と規制の主体がどこにあるかも分からない「いわれなき、マスコミの、報道自主規制」が行われてきました。精神障害者の人権を守るために、犯罪を犯した精神障害者の名前を報道しないだけでなくて、事件そのものを全く報道しないことが、日本では普通のマスコミの報道姿勢です。これは言論の自由および国民の知る権利という側面から考えて正しいことでしょうか。被告いわき病院は、マスコミに対して「事件の報道をすることは間違いである」と言っているように思われます。自分たちの不始末を隠すために、事件の報道を忌避することが許されて良いのでしょうか。それで、日本は良くなるのでしょうか。このマスコミの報道姿勢は日本特有の慣行なのです。それで良いのでしょうか。

いわき病院事件の裁判の本質は、日本の人権問題です。「精神障害者が健常者と等しく人権を享受する社会とは何か」を問い続けているのが、この裁判の目的です。片方で自分に都合が良い人権論を振りかざし、もう片方で、情報の公開を制限して、そして不正や不作為に目をつぶる、それで社会を良くすることができるのでしょうか。このことが裁判では問われています。

3、裁判の結果が果たすべき社会効果

私たち夫婦がいわき病院事件と称して裁判を提訴した最大の目的は被告いわき病院から賠償金というお金を取り上げることではありません。いわき病院に勝訴することで、日本の精神医療と精神医療制度を改革するくさびを打ち込むことです。私たちの目的は日本の精神医療を国際社会をリードするところまで高めて、世界に誇る人権国家日本をつくることです。「それに寄与することが、若干28歳で命を失った矢野真木人に残された最後の社会貢献の機会です」と私たちはテレビや新聞の取材で言い続けてきました。またこのことは、ロゼッタストーン社のホームページでも、私たちが繰り返し、繰り返し、書き続けてきたことです。

今回の被告いわき病院が提出した第1準備書面では「今後の統合失調症をはじめとする精神障害者に対する精神科医療に一定の方向性を与えることになる」と言うと共に、裁判の結果が「国連人権連盟、国際保健専門職委員会、国際法律家委員会等の国際機関に対しても、充分な説得力を持つ判断が示されなければならない」と言っています。このことは原告も被告いわき病院も、双方ともに、裁判の帰趨の内容が日本の国内外の精神保健医療に大きな影響を与えることに希望を表明したことになります。

ところが、被告いわき病院は国際的に評価が高い裁判が行われることを希望すると言っておきながら「安易に事実認定及び法律評価は絶対に回避されなければならない」と矛盾したことを言っています。これは、今後行われるべき裁判の場での事実認定を拒否しているとも言える表現です。いわき病院事件の裁判が提訴されたのは平成18年6月23日です。その提訴から既に7ヶ月半を経過して、また被告いわき病院の答弁書は平成18年7月31日に提出されましたが、その最初の文書が提出されてから6ヶ月以上を経過してもなお、被告いわき病院は事実認定を元にした具体的な論議に参入しておりません。被告いわき病院は抽象的な議論に終始しております。今回も「本件において検討を要する資料は膨大であり、各論主張をまとめる作業に多少時間を要している点はご容赦願いたい」と言って、具体論は一切展開しておりません。事実認定の回避を求めつつ、資料作成の遅れに赦しを乞うています。これは許される態度でしょうか。少なくとも、真面目な姿勢ではありません。被告いわき病院は真実を語るべき事実認定を拒否して、その上で、総論だけの議論で本件裁判を終えようとしているのでしょうか。被告いわき病院の姿勢に疑問を持ちます。

被告いわき病院の反論書を読むと、未だに被告純一に対する刑事裁判で確定した判決文や精神鑑定書および検察や警察が作成した調書等をきちんと読んでいないことが明瞭です。今回も被告いわき病院代理人弁護人は被告純一に確定した刑罰を「懲役20年」と言及して論理を展開しました。被告純一に確定した刑罰は「懲役25年」です。また既に被告純一には法律適用がされないことが確定している心神喪失者等医療措置法を持ち出して、まるで根拠がない論理を展開しております。このように被告いわき病院側の書面では具体的な事実認識をしないままで、自分サイドの手前勝手な論理だけを述べているところが沢山あります。その上で、今後の裁判が継続するところに、私たち原告としては「正確な議論展開がおこなわれるのであろうか?」という側面で不安を抱きます。

私たちが得た情報によれば、被告いわき病院の代理人弁護士は裁判における勝訴率が非常に高い方のようです。裁判の勝ち負けの経験は私たち夫婦には全くありません。まるで闇夜の中を手探りで、裁判を行っているような心境です。今後被告いわき病院が勝ちに来た時にどのような手を使い、どのような主張をするか。まだまだ山は越えておりません。今回の言論の問題は、ひょっとしたら、相手方が原告である私たちを封じ込めるための奥の手であったのかとも考えます。しかし、人権を正面切って裁判のまな板に載せようとしている時に、インターネットの通信とマスコミの報道を裁判の過程で制限しようとする試みは「やぶ蛇」ではないかと言いたい。

いわき病院事件の裁判は、原告の私たちは、最初からこの裁判の経過と証拠と結末を世界に広く知識として共有してもらうことも目的の一つです。このために、私たちは著書の『凶刃』を既に機会を得てポーランドで出版しました。今後、機会があれば『凶刃』に書かれている内容に刑事裁判と民事裁判の経過なども書き加えて英語などの言語で出版するつもりです。このため既に英国ブリストル大学臨床精神科助教授サイモン・デービース医師と、スペイン人ブランカ・アラマナク精神科医師を招聘して国内の医療技術専門学校で特別講義を行いました。いわき病院事件の裁判は、日本の現実と裁判の中の議論と帰趨を世界中に発信することが最初からの目的でした。だからこそ人類の問題としてこの裁判は行われているのです。精神障害者をどのような形で社会で共に生きる仲間として受け入れるのかを考えるのが本来のこの裁判の目的です。精神障害者が健常者と共に生きる社会をこの日本で実現するには、今私たちは何をなすべきでしょうか。それが問われています。



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