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なぜ被害者自助グループですか? (被害者自助グループを形成する理由)


平成19年12月5日
矢野啓司
矢野千恵

被害者であることは結果であり、自分が望んで選択して得られた立場ではありません。むしろ、絶対に経験したくなかった嫌で嫌でしようがない体験です。それでも私たち被害者はなぜ集うのでしょうか。どうして、集う必要があるのでしょうか。被害を受けた私たちの心には生きている限り一生続く深い悲しみがあります。被害の原因に対する深い憤りがあります。被害者がなぜ自分でなければならなかったのかという理不尽さに苦しみます。被害者同士が集まって傷口を舐めあっても意味がないのではないかと反問します。被害者が集まり話し合えば、それぞれのあの日あの時が目の前に浮かびます。そこまでして集う必要があるのでしょうか。

被害者自助グループを形成すると、被害者では無い専門家を有識者として指導者やアドバイザーに置いたらよい、とする「親切な」助言がされることがあります。被害を受ければ法的な問題に関与します。また被害者が受ける精神的衝撃は甚大です。このために法律家や精神障害治療の専門家に指導を任せるという考え方が、多くの被害者支援センターの仕組みとして考えられています。また「被害者=PTSD」または「被害者の支援=PTSD治療」という図式があるようですが、被害者を精神科の患者のように捉えてしまうことに違和感を覚えます。これまで精神科とは何の関係もなかった一般人が被害者になると「精神科の患者」となるという構図です。これは絶対におかしいのです。他方、被害者自助グループの中にも自らは被害者でもない弁護士等の指導に任せている組織も存在します。被害者とは自動的に一律に指導されなければならない程に無知で無力なのでしょうか。

被害者自助グループを形成してそれを運営するのは簡単ではありません。被害そのものは個人的な問題です。しかし、被害を受ける原因には社会的な背景があります。社会的な理由があります。また社会が対応すれば同様の被害の発生率を削減することも可能です。更には、社会の基本的なルールづくりや人道の理解と実践にも私たちが苦しんでいる問題が関係している可能性があります。私たちは被害者の活動を通して自分たちの苦しみや悲しみを経験する人が少しでも少なくなることを願います。


1、深すぎる悲しみ(悲嘆)

被害者になれば悲嘆(深すぎる悲しみ)の中に心が沈んでいきます。ある観察者は「悲しみは一時的な感情で、悲嘆は感情レベルではない言葉では伝えることのできない魂の叫び」と定義します。被害者は「自分の人生に意味がなかったのではないか」と反問します。更に「あの日、あの時に、ああしなければ、こうしていなければ、こんな事件は起こらなかった・・」と、過ぎ去った過去の自分の行動を悔やみ続けます。誰もが「あの時、反対しておれば、あの人は死ななかった・・」、また「あの時、違う選択をしておれば、あの人を死なせることは無かった・・」と悩み続けます。自分で自分に「埒もないこと」と言い聞かせても、どうしようもありません。思考はいつまでも「あの日、あの時・・残念・・無念・・」と堂々巡りをします。そして「もう自分は、いつ死んでも良い・・」という気持ちになります。

被害者が心の救済を求めるのは自然のことです。ある人は宗教に帰依したり、精神科医や心理士等の専門家にも相談するでしょう。またある人はおなじ心を共有できる人と巡り会って、語り合い、肩を寄せ合うことで、生きてゆけるでしょう。さらには、趣味やスポーツや仕事に悲しみを転化することも可能になるでしょう。中には、悲嘆から逃れる術もなく深酒に溺れたり、自らの心や体を苛み続ける人もいます。悲嘆からの再出発は苦しみです。どのような手段をとっても、何度も何度も、あの日あの時に心が戻るフラッシュバック現象に苛まれます。専門家と称する人に相談するたびに「ああ、この人は何もわかっていない、こんな事なら、(ついうっかり)心の救済を求めるのではなかった」という、悔悟の念にも苛まれます。

しかし被害者は他人に同情されたり情けをかけられたいのではありません。私たちは社会弱者だから甚大すぎて代わりの救済が得られ難い被害を受けたのではありません。社会の中では誰が強者で誰が弱者であるかは決まっていません。移ろいゆく社会の中ではある時には人は有利な立場に立ち、またある時には不利な状況に直面します。それが変動する社会の中で生きるということです。残念ながら私たちは被害者であると自己認識しています。それはたった一回の、ある日あの時の事件が、決定的に回復不可能な程の衝撃を私たちに与えたからです。しかしそれは巨視的に見れば社会の誰もが何らかの形でおこる可能性がある事件の中で、特に大きな被害や心に衝撃を与えるあの事が、現実に私たちの身の回りで発生したからです。

私たちは被害者の集団として一律に心理カウンセリングを受けたいのではありません。私たちは一律にPTSD等で精神的打撃の治療を受けたいのではありません。私たちは一律に同じ法律問題に直面しているのではありません。私たちは必ずしも善意だけの他人に助けてもらいたいのではありません。私たちは生きる力を持っています。確かに私たちは大きな打撃を受けています。しかしそれは、心の問題であれ、法律の問題であれ、経済的な問題であれ、個別事情の問題です。私たちが直面している問題にはそれぞれに固有の個性や特性があります。

被害者対策に関係している方たちにお願いします。自分自身は被害とは無縁なところにいて、可哀相な被害者を救済できるとは思わないでください。それはあなたが単に未経験者であるだけです。あなたの善意は理解できます。しかし、私たちは無力なだけではありません。私たちは社会で生きる力が無いのではありません。このため、素朴な善意だけで近づかれると、うっとうしくまた多くの場合迷惑です。

それでも、私たちは沢山の個別具体的な協力を必要としています。個人個人の問題としても、被害の打撃と喪失から立ち直るには、大きすぎて困難な障害があり、大変な努力を必要とします。個々の被害者は誰もがくじけそうになる心と闘っています。被害から立ち直って再生するには、きめ細かな社会の援助と協力が必要です。

私たちは悲嘆(深すぎる悲しみ)から立ち直ろうとしています。社会的な視点に立てば、深刻な被害者を救済して、速やかな立ち直りに協力することは、社会の活性を維持して健全な地域社会を作り上げることになります。それは社会の仕組みを見直すことでもあるのです。被害者は自分たちが受けた衝撃の中から、人間が人間として生きるには、社会の仕組みや、社会の規則や、社会の制度の中に、何が不足しているか、何が考慮されていなかったのか、何が無視されていたのか、これまで常識として考えられていた中で何が悲嘆を繰り返して生み出す原因になっていたかを指摘するのです。これは命の叫びです。被害者という可哀相な人間に対する施しと考えないでください。被害の苦しみと立ち直りを考えることは、社会を前向きに改善することです。それは誰にも普遍する人道の課題です。


2、犯罪被害の罪と罰

殺人被害を受けた遺族はしばしば「被害者の復讐権が国家に取り上げられている」と言います。そして「裁判で犯人を死刑にできないのであれば、目の前で釈放して欲しい、そしたら自分の手で殺す」とまで発言します。それまで善良に生きて、他人に危害を与えることなどを考えたこともなかった人が、大衆の前で「加害者を自分の手で殺したい」と発言するようになります。「だから被害者は人権を無視して極論に走る」と言わないでください。これは「最大の人権侵害である殺人」が日本の社会では許されているように見えることに対する心の叫びと問いかけなのです。殺人者の多くには前歴があり、社会がきちんとした対応をしておれば、社会の仕組みがしっかりしていれば、あの殺人事件は起こらなかった筈です。それが悔しいのです。

現実に無防備にされた加害者と直面することがあり、無防備な加害者に対して被害者が凶器を持つという有利な条件が与えられたとしても、本当に仇討ちをすることが可能でしょうか。仮に私がピストルを持たされて、私の息子を殺した犯人と対面させられて、「どうぞお好きなように」と言われるとしたら、それは悪夢です。私の瞼の裏には、現実には私が見てもいない「無惨な殺人死体となりつつある息子の姿の一こま一こま」が焼き付いています。私には、息子が殺されたその時の有り様が、あたかも私が目撃したように、見えています。それでも私は自分の手で犯人を殺すことはできません。そんなことをすれば、息子が死ぬ姿と、犯人が死ぬ姿が、私の瞼の裏で交互に映り続けて、私は私が死ぬ日まで悪夢を見続けることになるでしょう。

被害者遺族が「犯人を自分の手で殺したい」と発言するのは、社会に「このままではダメです。制度を変えて欲しい。もっと殺された者の立場に立って、失われた命の損失に価するだけの犯人の処罰をしてもらいたい。こんな理不尽な死に方をするのは、あの人だけで終わりにしてもらいたい。このままでは、他の人も同じような理不尽な死に方をしてしまう。どうして予見可能な殺人事件に社会は何も対策を取らないのか。それは本当に人権を守ると言うことでしょうか・・」と問いかけているのです。「犯人を殺したい」、そして「犯人に死を」と言うことで、「このような殺人事件を社会から根絶してもらいたい」、また「同じ犯人が繰り返して殺人を犯す状況を放置しないでください」と必死に叫んでいるのです。「社会がきちんと対応していたら、あの人も死ぬことが無かった・・なんとつまらないことで、あの人は殺されてしまったのだろうか・・」と、犯罪被害者を無為に発生させ続ける社会の不甲斐なさに悔しさを覚えて、「この問題を解決してください」とお願いしているのです。

私たちの場合は、息子を通り魔殺人した犯人は重度の統合失調症の患者で、社会復帰訓練で病院から許可による外出をしている途中で犯した殺人事件でした。日本では刑法第39条があるために、これまでの通例では「統合失調症であることはすなわち心神喪失である」として「精神障害であることは、それだけで罰せられていると同じであり、無罪」と処理されてきた事例でした。私たちは「例え精神障害者であっても、意識が明瞭で、殺意を持っていた人間は心神喪失ではない」と発言を繰り返して、検察当局が不起訴処分にしないように牽制しました。また刑事裁判では「可能な限りの長期刑」の判決が下されるように個人として可能な最大限の努力をしました。犯人は「仮に罰せられても、短期刑で、すぐに釈放される」と考えて殺人行為をしていました。ところが法的には初犯(実際には起訴されなかった過去の放火または弄火や、街頭での暴行行為等がありました)の精神障害者に対する判決としては異例中の異例の事として懲役25年の実刑が確定し、現在精神科病棟がある医療刑務所で服役しています。

現在の日本の制度では、私たちの長男を殺した犯人は刑期が満了すれば自動的に釈放されて自由の身になります。しかしこれはおかしいのです。ヨーロッパ諸国の場合には、犯罪歴がある、非社会性パーソナリティー障害をもつ重度統合失調症の患者は、刑期の満了後には高度保安病院に収容されて、一生涯の間、社会の中で自由行動することを抑制されます。私たちは、息子を殺した犯人が服役している間に、日本の制度が改正されてヨーロッパ諸国並の犯罪を犯した精神障害者処遇が実現することを願っています。このことは「精神障害者の人権を否定することではなくて、精神障害者の人権を守り擁護することでもある」と確信しています。

被害者の中でも犯罪被害者は、復讐したい心、仇討ちしたい心を必至に自分で抑えています。被害者になってしまったことは残念です。しかしその経験から、日本の犯罪被害の実状を改善してもらいたいと願うようになるのです。こんな惨めな経験は自分たちだけで終わりにして、同じような無作為な犯罪が、引き続いて発生することに対策を取ってもらいたいのです。そのためには個人で発言しても、何をどう言って良いかもわかりません。またひとりだけで発言すると、聞いた人が短絡して「被害者としての怨念の心が強すぎて、常軌を逸している」と言われかねないことも障害です。私たちは人道の問題を提起しているのに、あたかも目の前の被害に幻惑されて非人道的主張をしているかのように非難されることもしばしばです。そのような困難を脱して、社会に聞き届けられる有効な発言をするには被害者がグループを作って、個人の発言を被害者の発言とし、社会の理解と支持を得てゆく必要があります。

被害の原因には、被害が発生した原因が何であれ、社会が対処しなければならない問題があります。被害が発生することには社会が是正しなければならない問題点が隠れています。また現実に被害が起こったときには、その事件を詳細に分析して事象の中から普遍的な要素を抽出すれば、社会が手を差し伸べるべき課題が沢山見えています。被害者が集う理由には、数々の問題点や課題を社会に訴えるという大きな目的があります。


3、新しい被害者の救援

事件や災害の発生は予測することができません。ある日突然、回復不可能な甚大な被害として事件は発生します。事件が発生したとき、事件を知ったときには、既に結果であり、被害を最小化する有効な対策は何もありません。被害者になってしまって、できることは事件の後始末だけです。ところが、その事件で受ける精神的な打撃は大きく、被害者はすぐには現実的で有効な対策を取ることができません。また事件そのものがそれまで被害者が社会で経験した事とはまるで関係ない、知識も情報も対抗する手段もないところで発生します。大きな被害から立ち上がるにしても、あまりの衝撃の大きさに惑わされて、何をどうしたらよいかすら見当もつきません。被害者救済の問題は心という抽象的な問題だけではありません。もっと具体的な問題です。社会の中で健全に生きるための緊急の手段と課題です。

心の問題は確かに重要です。被害者は自分自身が経験したこともない、受け入れることが難しいほど大きな精神的衝撃を受けています。しかしだからといって、被害の本質に理解が不足していると思われる心理カウンセラーに出てこられて、当たらずとも遠からずの程度の「助言」をされるのははっきり言って迷惑です。大きな打撃から立ち直るには、目に見える被害回復の手順が必要です。被害からの回復にも行うべき事に優先順位があります。被害者は緊急事態の中にいます。社会生活者として被害そのものからの速やかな回復や立ち直りがなければ、心が回復基調になることも無いでしょう。一般論として、安易に「心」の専門家に出てこられて、個人の心の問題に接触されると、心がより落ち込む原因にもなります。被害者は専門家の実験材料や教材ではありません。

現実に被害を受けた立場からすれば、「失われた命」は回復不可能です。しかし、現実の社会制度の中で、可能なことを最大限可能として、失地回復が望まれます。被害経験者は誰でも、被害後の自分自身の経験から、あの時ああすれば良かった、こうしておけば、もっと有効な手当ができた筈だ、などと経験から得られる視点や対策の案があります。また、新しい被害者の心に迫る被害を受けた立場や視点からの助言も可能になるでしょう。しかし、被害の先輩であることは全能ではありません。同じような被害でも、誰もが置かれた状況は同一ではありません。それでも被害者には被害者として、経験に基づく新しく発生した被害者に対して行える協力がある筈です。

被害は甚大であればあるほど、多くは刑事裁判や民事裁判の対象となります。裁判手続きは弁護士など法律家の仕事です。しかし、裁判の全てを請け負った弁護士が采配できるものではありません。そもそも日本では弁護士が被害者の立場に立って仕事をするようになったのは最近の事です。弁護士が被害者の為に仕事をするための、共通の認識や方式は未だに確立していません。また弁護士が法律専門家として最大限の能力を発揮することは、加害者に処罰を求めて、被害者が権利回復することとは必ずしも同一ではありません。また争点や解決の方向付けも、法律家だけの仕事でもありません。さらに刑事裁判は基本的に検察官の仕事であり、被害者が関係者として位置づけられてきたのは最近の制度改正の成果です。新しい制度の中で試行錯誤する中には、古い被害者が新しい被害者に助言できるところがあるはずです。

私たちはある被害者支援センターの事務局長に「被害者支援センターで弁護士を呼んで研修会をしたところ、その弁護士は『刑事裁判における被害者の意見陳述は情状に限られており、証拠採用されない』と言った。従って、刑事裁判で被害者の意見陳述はやってもやらなくても良い、あまり大きな意味はないのでしょう?」と言われたことがあります。これはとんでもない間違いです。この「被害者支援」センターの研修会の講師となった弁護士さんは、旧来の普通の弁護士の立場で発言する「被害者支援」にそれ程理解が進んでいない認識の弁護士さんであった可能性があります。私たちは刑事裁判で、それまで傍聴席で観察した裁判の審議を踏まえて、予め熟考に熟考を重ねた内容の意見陳述をしましたが、それを裁判官は判決文で引用しました。意見陳述では、被害者の視点や情報を具体的に提示して、場合によっては、被害者が判決を左右する証拠や論理を提示することも可能です。被害者の意見陳述は検事の論点とも、弁護士の意見とも異なる論理提出であり得るのです。

被害者は被害者として、新しい被害者に協力する手段を持ちます。それは緊急の生活維持に関連するかも知れませんし、刑事や民事の裁判対策であるかも知れません。さらには社会の中で被害が発生するメカニズムを提起して、社会に対策を求めることに繋がるかも知れません。人間である私たちは一人ではほとんど何もできません。ところが、数人でも集まれば、できることは飛躍的に広がります。それが経験を社会に還元することであると考えます。

被害を受けて命を失った本人は生き蘇えりません。しかし、残された者が死んだ本人の無念を社会に活かすことは可能です。これは被害を受けて悲嘆に苦しむ原因が何であれ、被害者が行える重要な課題であると考えます。「命の代償」を知識や経験として社会の中で活かさなければ、死んだ者の悔しさは解消できません。死んだからこそ行える、また被害者だからこそ行える、世の中、人のための社会貢献があるはずです。それは、人道回復と人道実現への叫びなのです。


4、社会に活かす

被害者自助グループを形成する意義は何でしょうか。被害者自助グループに参加する意味は何でしょうか。多分、それは被害者一人一人で異なる意味合いを持つでしょう。同じ言葉で言っても、内容は異なるのだと考えます。

ある人は心の救済だと言うでしょう。ある人は犯人への復讐だと言うでしょう。ある人は経済的不利益の回復だと言うでしょう。またある人は権利回復だというかも知れません。更には虐げられた者の社会闘争だと言う人も被害者の中にはいます。何であれ、世の中は多様です。それでも、私たちは被害の経験を社会に生かして、社会貢献として、惨めに失われた命の価値を見いだしたいと希望しています。人はそれぞれに言葉と表現は異なります。共通してあるのは被害を受けた経験と被害を教訓にして、同じ問題認識を持つ仲間を形成しようとする意思です。

私たちは社会で生きています。ある意味では社会生活をするからこそ、悲嘆に苦しむような被害も発生したと言えます。自然災害であれ、人的事件であれ、内容や形態は異なっても、社会活動の中で被害は発生したと考えられます。

被害者が集うことも社会活動です。被害者が集まっても、すぐには何もできません。しかし、被害者が集い意見を交換することで、何か世の中に問える課題が出てくるでしょう。私たちは前向きでありたいと希望します。被害から立ち直るにも、前向きの意思が必要だと考えます。

最初に行えるのは、何であれ、理不尽な被害を経験した失望の心を充足する心の修復の集いです。そのような集いを持ちたいと希望します。しかし、それだけでは終わらないと考えます。私たちが生きている社会から、私たちのように理不尽な被害に苦しむ人を少しでも少なくしたい、このように希望して活動することも前向きに生きる力です。社会に発言して、社会の改善を期待するには、みんなで協力した意見の集約が必要です。どのような方向であれ、どのような分野であれ、どのような手段であれ、参加者の個性が発揮される被害者の自助グループを模索したいと希望します。被害者自助グループは被害者自身が運営する団体です。



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