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刑法第39条は不磨の大典?


平成20年2月20日
矢野啓司・矢野千恵

日本の刑法第39条は永遠の真実であり改正の必要もない不磨の大典でしょうか。日本では刑法第39条で不起訴もしくは無罪とされる犯罪者が多いその裏では犯罪被害者の人権が無視されてきた現実があります。それでも、日本の法曹界や精神医学会の専門家からは、刑法第39条が抱える本質的な問題点に関する反省の論調が見られません。この小論文は、精神科医療過誤により息子が精神障害者に通り魔殺人された私たちの視点を、法制度の側面からとりまとめたものです。弁護士や医師などの専門家にこそ読んでもらいたいと希望します。少しでも刑法第39条が本質的に抱えている問題が世の中に知られることを願っております。


1、古代ローマ人の智慧と刑法第39条

私たちは、精神科病院を相手取って民事訴訟を提訴していることに関連して、法曹関係者から批判されたことがあります。「精神障害者の心神喪失無罪は古代ローマの時代から2000年の歴史的背景がある由緒正しい人権擁護の法的原理であり、この法思想に対抗することは、そもそも間違っている」と言われました。その法曹関係者は「そもそも統合失調症患者は自動的に心神喪失者であり、患者を治療していた精神科病院の責任を問うことはできない」と主張しました。日本の法曹界に所属する法律家のほとんどは、「刑法第39条があるために、精神障害者はもとより精神科病院の責任も一切問うことができない」という思考で凝り固まっているようです。そしてその考え方の基礎にある思想は「古代ローマ法以来長年にわたり培われた人権擁護の歴史が刻まれており、それは人類の宝である」と確信しているようです。

     刑法第39条
         第一項 心神喪失者の行為は、罰しない。
         第二項 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

今日の日本では、精神障害者に関連する免責規定は、刑法第39条で上のように規定されています。この日本の刑法条文は明治40年(1907年)に制定されたものですが、フランス刑法典を基礎に置いてドイツ刑法などを参考にして西欧列強と対等な文明国であることを西欧列強に示すことを目指して法制度整備をしたものであるとされます。ある意味では、日本の現実に根ざした法制度を作り上げたと言うよりは、西洋から取り入れた近代理想主義のたまものであると言える要素があります。この規定は、「心神喪失者」と「心神耗弱者」に関した法律の規定であり、直接的に精神障害者の免責を定めたものではありません。しかしながらその後の法律運用で、「精神障害者=心神喪失者もしくは心神耗弱者」という判例と刑事行政の運用が行われてきました。

塩野七生は、わが国切っての古代ローマ史の碩学であり、古代ローマ帝国史に関連する多数の著作を持っています。塩野七生著「ローマ人の物語30、終わりの始まり(中)、新潮文庫、p.103-105」には、狂人(精神障害者)の犯した犯罪に関連して、ローマ法の判例になる判決となった、賢人として知られる、古代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの書簡{ローマ法大全、(ユスティニアヌス法典)学説彙纂(Digesta)「D.1, 18, 14」}が引用されています。塩野七生によれば、古代ローマ皇帝は「最高裁長官」の機能も持っており、マルクス・アウレリウス帝は「最高裁長官として精神障害者が引き起こした犯罪に関連して、ローマ法の判例になる判決を行った」のであり、これからは以下の基本的な考え方が整理されます。

自らの言動についての最低の制御能力さへも欠き、行為の善悪に対しての判断力が無い、狂人(精神障害者)は罪に問うことができない。
狂人(精神障害者)を装っている者は処罰される。
狂人(精神障害者)は、判決は無罪でも、即放免ではない。厳重な監視の下で保護される。
狂人(精神障害者)の保護は罰ではない。その人物の近くにいる人間を保護するためである。
狂人(精神障害者)であっても、頭に理性がもどっているときの犯行であれば心神薄弱(耗弱)を理由にして無罪判決の対象にならない。
狂人(精神障害者)の犯行が、世話をしていた人の怠慢に帰することが実証されたならば、義務不履行の罪で、これらの人々は処罰される。
法を司る者が心することは、重罪を犯した狂人(精神障害者)の処罰に留まらず、他の多くの人々が狂人(精神障害者)の犯罪の犠牲になることを防ぐことにある。

参考 : 賢帝マルクス・アウレリウスの書簡
「ローマ人の物語」(塩野七生著、新潮文庫)30巻、p.103-105

(15歳の息子コモドゥスを共同皇帝に指名したマルクス・アウレリウス皇帝{在位西暦161-180}は、体調を崩したこともあって)紀元177年は、首都と別荘のあるローマ近郊を往復しながらの静かな1年を送った。しかし、皇帝は2人になっても、実質上の皇帝はマルクス1人である。その皇帝の政務は、どこにでも追いかけてきた。多くは通常の政務だったが、中にひとつ興味深い判決があった。狂人の犯した犯罪にはいかなる処罰が妥当か、という問題に対するローマ法の判例になる判決である。幾度もくり返すが、ローマ皇帝は「最高裁長官」でもある。ただし皇帝の下す判決は、そのまま法廷で読みあげられるとはかぎらない。法廷で裁判長を務める「首都警察長官」が、法に照らしても判決に迷った折に皇帝の考えを問い、それに答えて、もしも首都にいないときは皇帝からの書簡が届く。判決は、その皇帝の意にそって、長官が下す場合が多い。ゆえに、このときにマルクスがしたためた書簡の相手は、法廷では裁判長席に坐る首都警察の長官になった。
  「あなたから送られてきた捜査と尋問の結果を精読しての感じでは、被告エリウス・プリスクスは、自らの言動についての最低の制御能力さえも欠いており、母親を殺したときも、その行為の善悪に対しての判断力がなかったと思うしかない。また、狂人を装っていたとも思えない。このような場合は、罪に問うことはできない。なぜなら、狂気とはそれだけで、神々が人間に下す罰の一つであるからだ。
  しかし、判決は無罪でも、それは即、放免ではない。今後とも、厳重な監視の下で保護される必要がある。しかも、状況によっては鎖つきの保護さえも、考慮に入れておくべきだろう。これは、彼に与える罰ではない。この人物の近くにいる他の人々の保護のためであって、判決を下すわれわれは、充分に起こりうる不慮の事態をも考慮に入れておかねばならぬということだ。
  そして、狂人であってもしばしば生ずる現象だが、彼の頭にも理性がもどってくるときがある。あなたが監視をゆるめてはならないことのもう一つは、母親殺害が、この明晰の一瞬になされたかどうかということだ。もしもそうであったなら、この被告は、精神薄弱を理由にしての無罪判決の対象からはずれることになる。
  とはいえ、あなたからの報告にもあるように、被告は、凶行を犯す前からすでに家の中の一画に隔離され、家族や友人たちの保護と監視の下にあったのだ。ゆえに、被告の世話をしていた人すべてを、あなたはこの視点から、尋問し直すべきだと思う。これは、精神を病んでいる被告に対して下された無罪判決とは、別にあつかわれるべき問題である。つまり、犯行は、この人々の怠慢に帰すことができるのか否か、を調べるためなのだ。そして、もしもその事実が実証されたならば、義務不遂行の罪で、この人々には処罰が下されねばならない。くり返すが、法を司るわれわれが心しなければならないのは、重罪を犯した狂人をどう罰すべきかの問題に留まらず、他の多くの人々がこの種の犯罪の犠牲になるのを防ぐことにあるからである」


2、哲学的課題

刑法第39条の妥当性を議論する場合には、究極の議論として「本当に心神喪失の状態にある人間を罰することができるのか」という問題に突き当たります。現実問題として、今日の精神医療水準でも、また過去未来の精神医療水準でも、本当に心神喪失の状態になる人間の発生をゼロにすることは不可能でしょう。例えば、バスの運転手が乗客を乗せて高速道路を運転していて突発性の脳障害が発生して運転不能になり、大事故を発生する状況を想定する場合に、バスの運転手の責任を問えるかという問題があります。勿論、日常の健康管理の問題はあります。それでも、事前の健康検査では異常が認められず、適切な労働条件で働いていても、突発性の脳障害の発生をゼロにすることは困難でしょう。

全ての市民の精神状態の変動の可能性を検討して、本人には不可抗力で心神喪失の状態(自らの言動についての最低の制御能力さへも欠き、行為の善悪に対しての判断力が無い状態)に至る可能性はゼロとはなりません。可能性がゼロにならないのであれば、それに関連した法律の規定が存在しても、論理的には矛盾はありません。

今一つの課題は、責任論として本当に心神喪失の人間を罰することができるのか、また社会を形成する上での人道上の問題として適切であるのか否かという問題です。どのような社会を造りあげてゆくことが、私たちにとって最も望ましいのでしょうか。

私たちの社会は責任能力を全く持たない人間に責任を問うことができるのでしょうか。仮に裁判の結果責任を確定できたとして、その意味があるのでしょうか。事件を犯したときにも、裁判の途中でも、また裁判以後でも、全く責任に関する知覚と認識を有しない人間に対して、責任を果たすことを求めることができるのでしょうか。この問題に関しては「否」と答えるしかありません。

次の課題は「本当に心神喪失である人間」に自己責任を問い、社会が救いの手を差し伸べないことが、私たちが望む社会のあり方であろうかという問題です。論理としては自らを律することができず、自ら生活の糧を確保することができず、家族からも見放された人間が路傍で悲惨な生活をして、自ら朽ち果てることも、自己責任のあり方です。しかしそのような社会に私たちは住みたいのかと問われれば、「否」と答えます。人間として生まれた以上は、人間としての最低限の生命と生活の保障を行き渡らせることができる社会に私たちは住みたいと希望しています。また仮に私たち自身が心神喪失の状態になり社会的適応能力を全て失う状況に至る場合には、社会に救いの手を差し伸べてもらいたいと希望します。本当に心神喪失に至った人間にそれでも責任を問う社会は、社会の基本として人道上の問題を抱えているといわざるを得ません。

それでは、刑法第39条は不磨の大典であり、記述に全く問題がない、理想の法律規定なのでしょうか。刑法第39条は、刑法第39条の法文規定に起因する社会の基本に関わる人道上の問題を内在していないのでしょうか。心神喪失である人間を救済するための人道上の規定が原因となって、付随的でまた深刻な人道上の問題を引き起こしていないのでしょうか。もし、特定の人間を救済するための法律規定が、他の人間の人権や生存権を侵害している場合には、その法律規定を見直して改正することは許されないのでしょうか。法律規定は人間が社会を形成して、より良い社会を造りあげてゆくための基本的な社会規範を文章化したものです。その人道問題に対処しているはずの文章規定から、憲法の基本要件である基本的人権の問題で、副次的に深刻な問題が頻発する場合には、そもそも文章の書き方に問題があるとして見直すことは考えられないのでしょうか。人道上に本質的な問題があると認識される場合には、その条文を現実に即したものに書き改めて改善してゆくことが、法治国家に求められる責務ではないでしょうか。


3、精神障害の法制度と寛解

日本で「心神喪失が争われる事例」を見ると、犯罪を犯したその時に限って心神喪失であったのか否かが問われています。犯罪を犯した後に行われた精神鑑定を基礎に置いていますので、多くの場合、重大な対人犯罪行為を犯した人間であっても裁判で責任を問われている時には心神喪失ではなくて、本人は普通に議論や自己弁護の主張ができています。日本で問われている心神喪失の状態はその時限りの一過性の問題であり、心神の状態の継続性や持続性は問題にならないようです。日本では犯罪(触法行為を含みます)を犯した人間が継続的に心神の問題を抱えている精神障害者ではなくても、例えば極度の飲酒による複雑酩酊や麻薬中毒による一時的な妄想状態にある場合でも、広く心神喪失が認定されてきた経緯があります。犯罪を犯した、ごく短時間の状態であっても、心神喪失が主張できれば、また心神喪失の可能性が精神鑑定されれば裁判官に心神喪失と認定されて、どのような対人重大犯罪であっても法的責任が問われない可能性が高いのです。このような論理を基礎に置いて、日本では判例が積み重ねられてきた事実があります。

刑法第39条が制定された明治40年(1907年)には精神障害は治癒(寛解)可能な疾病ではありませんでした。今では不適切とされる古い格言ですが「バカとキチガイにはつける薬がない」と言われました。すなわち、当時の常識では「精神障害は治らない病気」でした。刑法第39条がそのような時代背景があって制定されたことを忘れてはいけません。どのような法理の文章でも、制定された時の時代背景があって、文章化されているのです。従って制定された時には理想と考えられた文言であっても、時代と社会背景が異なれば、法律の条文が意味する内容に変化が生じ、法律の効力も異なったものになる可能性が高いのです。場合によっては、本来理想的な理念の元に策定された人道上の善を体現するはずの法令が、「悪法」と非難されるべき社会効果を持つ実態に、時代と社会の変化で転換してしまう可能性もあり得るのです。実社会における法律運用では、そのような可能性を冷静に評価することが求められていると考えます。

統合失調症(Schizophrenia)と現在言われている症状は1852年にフランスの精神科医モレル(Benedict Morel)によって初めて医学的に公式に記述され、Demence precoce(「早発性痴呆」)と呼ばれました。その後1871年にドイツのヘッカー(Hecker)が「破瓜病」(Hebephrenie)を著し、1911年にスイスの精神医学者オイゲン・ブロイラー(Eugen Bleuler)は、Dementia Praecox(「早発性痴呆」)をSchizophrenie(旧称「精神分裂病」)と改名し疾患概念をかえました。1952年フランスの精神科医ジャン・ドレー(Jean Delay)がクロルプロマジンの統合失調症に対する治療効果を初めて正しく評価し、精神病に対する精神科薬物療法の時代が幕を開けました。その後1957年ベルギーの薬理学者パウル・ヤンセン(Paul Janssen)がクロルプロマジンより優れた抗精神病薬ハロペリドールを開発し、現代に至るまで多数のより有効な向精神薬が開発され続けています。現在では向精神薬抜きの統合失調症をはじめとする精神障害者治療は考えられません。

上記を整理すれば、日本で1907年に刑法第39条が規定されてから4年後にスイスのブロイラーが今日の統合失調症の疾病概念を確立した事になります。すなわち、法律の条文が書かれた時点では、その時既に今日で言う統合失調症の疾病は存在していたとしても、統合失調症という医学的疾病概念は無かったのです。従って「統合失調症=心神喪失」という考え方は、後付の法律解釈になります。次に大きな問題は、1952年に精神科薬物療法の時代が幕を開けたという事実です。このことは、統合失調症がそれまでの治せない病気であった状況を脱して、薬物療法により治癒(寛解)を期待できる疾病になったことを示しています。2008年の現在では統合失調症が治癒可能な疾病になって既に56年(半世紀以上)を経過しているのです。この過去半世紀の科学技術の進歩は素晴らしいものであり、年々月歩大脳科学は進歩しており、新しい向精神薬が開発され、これに関連していると考えられる精神疾患と症状の治療技術は進歩してきたのです。精神医療科学技術は未だ完全ではありませんが、今日の精神科医療は統合失調症に対しては患者保護のために拘束をするだけの無作為ではなくなっているのです。


4、心神喪失の鑑定

これまで70回以上の司法精神鑑定を行った経験があるとして紹介された、ある国立大学医学部精神科の准教授がテレビインタビューに答えて次のように発言していました。「統合失調症の患者は、その患者を入院治療するためには、精神鑑定で心神耗弱と鑑定するのは不充分で、(必ず)心神喪失と鑑定されなければならない」。この発言は何を意味しているのでしょうか。患者に入院治療が必要と判断されたならば、必ず「統合失調症=心神喪失」であるべき、と言っています。この発言の目的と大義名分は「患者の治療」です。統合失調症の患者の治療という目的があれば、その患者が人間としての事理弁識能力を有していて、他人に対して明白な殺意を持って他害行為を犯したような場合でも、精神鑑定医師は心神喪失と鑑定するべきなのでしょうか。

この准教授の論理は患者の精神状態がそもそも心神喪失の状態(自らの言動についての最低の制御能力さへも欠き、行為の善悪に対しての判断力が無い状態)であるか否かという、精神科医師として医学的に行うべき「精神診断」を放棄しています。重大な他害行為を行った犯罪者で、自らの言動について制御能力を持ち行為の善悪に対しての判断力がある人間であっても、「その犯罪人が精神障害者であって入院治療が必要な統合失調症患者であると診断できれば、自動的に心神喪失と鑑定されるべきである」と言っており、司法精神鑑定者の実行者が「そもそも患者の事理弁識能力の確認をする必要がない、また精神鑑定は不要である」と言っているに等しいと考えられる主張です。日本ではこのような社会から求められた専門的領分で問われるべき職責を曲解しているのではないかと疑われる人材が、国立大学医学部精神科准教授として、高度な学識を尊敬されているという現実があります。

さて、統合失調症の患者は治療されなければなりません。それでは、心神喪失で無罪と判決されなければ統合失調症の患者の治療は行われないのでしょうか。日本の刑務所には多数の病院施設が併設されており、そもそも刑務所内では病気の治療は行われないというような非人道的な状態は存在しません。また医療刑務所の中には精神科病棟もあります。犯罪者が精神障害者であれば、刑務所の中で専門科目の治療が行われております。治療のためには心神喪失で無罪でなければならないという論理は成り立ちません。それでも、上述の准教授はテレビインタビューで「医療刑務所は管理が主目的で、治療が主目的ではない。医療刑務所ではない、精神科病院で治療されなければならない」と主張していました。しかしながら日本では心神喪失で不起訴もしくは無罪とされた重大な触法者を必ずしも精神科病院で入院治療をさせてこなかった歴史があります。また精神医学的治療の質の問題は、治療施設や機関の設立目的や設立運営母体などとは別件であり、混同するべきではありません。

日本では全国に知れ渡った有名な事件の多くで精神鑑定を行ってきた、高名な精神鑑定者が新聞紙上で「そもそも、疑わしきは罰せずが大原則である。この原則に従えば、精神障害者には積極的に心神喪失を鑑定することが、触法行為を犯した精神障害者の権利を守ることになる」と発言していました。これは何を意味しているのでしょうか。

「疑わしきは罰せず」は法曹界の判断理念です。他方心神喪失であるか否かは精神医学的な状態の判定です。純粋に科学的であるべき精神鑑定に、法曹界の判断理念を持ち込んで鑑定の根拠とすることは論理的に正しいのでしょうか。「心神喪失の状態」とは「自らの言動についての最低の制御能力さへも欠き、行為の善悪に対しての判断力が無い状態」であるか否かという精神症状の問題であり、「疑わしきは罰せず」という問題ではありません。「最低の制御能力や判断力」の有無に関して精神鑑定医師が判断に迷うことはあるでしょう。しかしそのことは「心神喪失と積極的に鑑定する」こととは別個の論理です。

日本の精神鑑定は過去の犯行時点という、過去の特異時点で重大犯罪行為をした人間の精神状態を鑑定している現在から推察しています。その事は鑑定をしている時点で、重大犯罪者が心神喪失でなくても心神喪失の徴候をも有していなくて良いのです。ここに重大な論理的問題があります。そもそも、重大な犯罪行為を犯している時点では、仮に健常な精神状態にある人間であっても、異常な興奮など、「自らの言動についての最低の制御能力さへも欠き、行為の善悪に対しての判断力が無い状態」にいくらかでもなっている可能性が高いのです。そもそも殺人などの犯罪行為にはそのような要素が常に伴います。その上で、「疑わしきは罰せず」を精神鑑定の判断基準に置けば、犯罪者が罪を逃れたい一心で「詐病」を行っている要素を見抜くことができません。

仮に、精神鑑定医師が「疑わしきは罰せず」の行動原理を持つことが適切であると考えられる場合ですが。この場合、精神鑑定書に既に「疑わしきは罰せず」という情状酌量の要素が入っています。その上で、検察官が起訴するか不起訴にするかの判断に「疑わしきは罰せず」という理念が介在します。更に、刑事裁判でも裁判官の判断基準の中に「疑わしきは罰せず」が介在します。「疑わしきは罰せず」の理念が全ての過程の判断に関与することになります。これは法手続の執行で、適切な運用であると言えるのでしょうか。そもそも、精神鑑定の作業に「疑わしきは罰せず」を持ち込むことで、事実認定の基本が崩れています。正しい事実認定に基づかないで、法律の執行をしても良いとする慣行が広く行われているのが、日本の実体ではないでしょうか。その上で、「疑わしきは罰せず」という同じ論理のバーゲニング(罪の軽減)が同一事案で繰り返されています。これは法治国家として信頼に足りる法律運用でしょうか。そもそも、精神鑑定医師が「疑わしきは罰せず」を精神鑑定の行動原理とすることが間違いであると思われます。


5、刑法第39条執行の現実

日本で刑法第39条が執行されている実態を見ると、警察、検察及び裁判所が法治国家の基幹を構成する司法機関としての体を成しているのかを根本から疑わざるを得ない現実があります。そして日本の言論機関も精神障害者と刑法第39条に関連する問題の報道から逃げており、正確な情報を社会で共有するという目的を失している現実があると指摘できるでしょう。これらは、日本における刑法第39条が執行されている現実をつくりあげています。

日本における犯罪で犯人が最初から精神障害者であることが明白な事件では、事件そのものが報道されないことがほとんどです。また最初は異常な事件が発生したとして全国に報道されるような事例でも、犯人が精神障害者手帳を持っていたり、もしくは精神科病院に入院歴があるか通院患者であれば、急速に報道がされなくなり、あたかも事件そのものが無かったかのような状態になります。なぜ、日本では精神障害者が重大な犯罪行為を犯した場合でも、犯人の名前を報道しないまでも、事件そのものの報道も社会から抹殺されるのでしょうか。ところで、精神障害者が関係しておれば事件そのものを報道しない慣行は、世界的に共通な報道規制の慣行ではありません。多くの国では事件が発生した事実やその客観的で詳細な背景は社会に伝えられます。日本では精神障害者に関連する事実関係を社会に伝えないことが、崇高な人権を守ることであるかのような誤解があると思われます。社会が理性で考えるための情報を共有しないままで、精神障害者に関係する制度変革を前向きにまた建設的に行うことができるのでしょうか。また情報を社会から消し去ることは本当に精神障害者の地位を守り育てることになるのでしょうか。普く全ての人の人権を守り育てるという目的意識を反省基準として、報道のあり方を真剣に考えるべき課題です。

日本で重大な対人犯罪や放火などの事件が発生した場合に、現場で犯人と接した警察官が、犯人が精神障害者手帳や精神科病院への通院証などを保持していたりして、精神障害者であることが明白である場合、現場の判断で逮捕しないことがあると言われます。このようなことは正確な統計や事例として公表されませんので、あくまでも噂としてしか言えません。それでも、ある地域で連続放火事件が発生したけれど、犯人が精神障害者であるので最初は逮捕しなかった、すると次々に放火し続けたのでやむなく逮捕することにした、というような話が新聞記者から伝わったことがあります。このような事例は日本国内で多発していないと言い切れるのでしょうか。また、このような事例があるとされることは、法治国家として許されるのでしょうか。

殺人犯罪でも、犯人が精神障害者である場合に、犯人が必ず検察官によって起訴されて、犯人が本当に心神喪失であるか否かの判断を法廷で行うという慣行は日本にはありません。日本では検察官の起訴便宜主義が殺人や婦女暴行などの重大な対人犯罪にまで許されています。検察官の場合にはさすがに、精神障害者手帳や精神科通院証だけでは不起訴と判断する根拠とはしないようです。それでも、検察官が根拠とする精神鑑定そのものが安易である場合が多いとされます。多くは簡易精神鑑定で、その現実は30分程度の面接で、精神科医師が「統合失調症なので心神喪失」と安易に鑑定する程度と伝えられます。酷い場合には、精神科医師ではなくて臨床医心理士などの補助スタッフが目の前の犯人に感情的な思い入れをして意図的に心神喪失度を高めた記述をして作成した鑑定書が精神科医師の鑑定書として提出された場合もある、と書かれている書物もあります。更に問題であるのは、これらの精神鑑定書は犯人が不起訴もしくは無罪と処分された場合には、罪に問われない人間の個人情報であるとして、報道機関や被害者遺族に公表されません。日本では精神鑑定結果を社会の共有知識とする慣行も、他の専門家の批判の眼を活かして精神鑑定をより信頼度の高いものにするという制度もありません。刑法第39条を適用する法律判断及びその根拠が日本では闇の世界の中に置かれたままで、その法律手続きが正しいのか間違っているのか、また改善の余地がないのかなどを検討する可能性も無いという現実があります。そして、検察起訴便宜主義を殺人などの重大犯罪にまで適用することに対して、検察当局の機関としての反省が認められません。日本では、検察当局が、国際的な標準からほど遠い、法治国家の司法運営機関でありつづけています。

日本で刑法第39条に関連した裁判が行われる場合には、刑法第39条で無罪判決を確定して、その上で心神喪失者等医療観察法の処分にまかされる場合があります。法務省の保護観察所が平成19年9月30日現在でとりまとめた、心神喪失者等医療観察法が制定されてから2年余の期間で法律の対象となった犯罪者の種別は、「放火28.9%」「強制わいせつ・強姦等5.7%」「殺人25.0%」「傷害35.0%」でした。対象となった725人の内で、入院決定が416人(56.6%)、通院決定が153人(21.1%)、そして驚くべき事に入院も通院も強制されない「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った触法者」が156人(21.5%)もいました。裁判官が関係した不起訴もしくは無罪となった心神喪失者等の中で21.5%の犯罪者は入院も通院する必要もないのです。そして21.1%の犯罪者は強制入院する必要がありませんので、市中に滞在して精神科病院に通院治療を受ける程度の精神障害者なのです。驚くべきは、心神喪失で不起訴もしくは無罪となった重大犯罪者が裁判官が関与する法手続であっても、43.4%の高率で即時に市中で行動することが許されているという現実があるのです。これは上に引用した司法精神鑑定を何回も行っている准教授が主張する「入院治療が必要であると判断された場合には必ず心神喪失と鑑定する」をも大きく逸脱しています。また、これら重大な触法者は本来有期刑の対象となるべき犯罪者であり、不起訴や無罪とする事が間違いであったと考えるのが社会として正しい処分ではないでしょうか。

大阪池田小学校事件の犯人は精神障害者手帳を持っているのであたかも不逮捕特権があるかのような発言をしていたと伝えられます。日本で、精神障害者であるだけで安易に心神喪失を認定して、不逮捕もしくは無罪としてきたために、多くの精神障害者が「犯罪行為をしても逮捕されない、無罪になる」という安易な認識を有しています。このような、「重大な触法行為をしても逮捕されない、無罪になるという認識を持つこと」はそもそも心神喪失ではあり得ません。


6、判例主義とセクショナリズムの弊害

刑法第39条は明治40年(1907年)に書かれた文章です。刑法第39条が制定されて以降、医療科学技術は進歩してきました。また統合失調症患者に対して一時流行したロボトミー手術は非人道的な治療手段であるとして行われなくなりました。精神障害者であるだけで一生涯精神科病院に閉じこめる治療も非人道的手法として世界の非難を浴びて改善されてきました。精神科治療の現場では、向精神薬の発達を基礎として、患者の多くが社会復帰を目指したノーマライゼーションの訓練を受けるようになりました。

精神障害者を取り巻く環境は変化していますが、刑法第39条の条文は制定から100年を経ても同じ文言です。このことは同じ法律の条文を元にした裁判と行政執行が過去100年に渡り繰り返されたことを示しています。特に裁判では判決の先例である判例主義が繰り返されてきました。その判例は、精神障害の中で統合失調症の病理概念が成立していなかったころから継承されてきました。更に、向精神薬が未発達であったころの判例も継承されます。これでは、精神障害者の犯罪を判定する根拠がまったく異なっているのに、過去の事例を現代の判断に持ち込むことになります。

ヨーロッパ諸国では精神障害の犯罪を判定する法律文書は日本の刑法のような単純な書き方ではなくて、しかもしばしば書き改めてきました。英国では日本の心神喪失の判定基準としてマクノートン・ルールがありますが、その基準も時代の変遷できめ細かく書き改められ、解釈を更新してきた経緯があります。また精神障害者の犯罪の問題は法務省所管の刑法だけで社会が対応できる問題ではありません。厚生労働省所管の精神医療と一体として運用されることで、真に社会的に効果を期待できる制度が整備されて運用されることが期待できます。ヨーロッパ諸国では国家機関のセクショナリズムという弊害にも視点を置いた制度改善が図られてきたと言えます。

日本では、一度検察官が不起訴にした場合や、裁判で無罪とされた場合であっても、心神喪失者等医療観察法が施行されている現在でも、心神喪失者等であるはずの犯罪を犯した人間が精神科病院に収容されることが無く、直ちに市中で行動する自由が許されています。日本では司法制度の運用と、精神医療制度の運用の調整と連携が取られないままで放置されており、結果的に心神喪失等に認定されて罪を逃れている人間を多数輩出している現実ができあがっています。ある意味では国家機関のセクショナリズムで、法治国家の運用の現実が詐病という脱法行為を助長していると考えられるのです。

日本の問題は、精神障害者に広く心神喪失と心神耗弱を認めすぎた行政判断と判例が積み重ねられてきたところにあります。殺人や婦女暴行などの重大犯罪であっても容易に不起訴や無罪とされてきました。そして不起訴や無罪とされた人間の多くは、心神喪失で治療されることもなく直ちに市中で行動する自由が与えられてきたという現実があります。この処分は心神喪失と認定された人間の立場から見れば、より多くの自由を確保されているもしくは人権が守られているという視点もあり得ます。しかし、人間としての事理弁識能力を有している犯罪人に罪を問わないと言う社会的不正義の要素も合わせて持っています。そこには「疑わしきは罰せず」という判断が介在していますが、過剰や行きすぎではないかという批判に対しては、日本は情報の非公開で封殺しています。

日本で広く実行されている、精神障害者を不起訴にするもしくは無罪とする社会的処分は、精神障害者に殺された人間や暴行された人間の人権を全て無視するという、コインの裏の側面があります。殺人は人間としての生存権を奪う行為であり、最大の人権侵害です。婦女暴行が許されるならば、女性が守られず、健全な世代交代の継承という社会の基本的な秩序が崩壊します。これらは憲法で守られている基本的人権の要素です。その基本的人権が侵害されても、刑法第39条の処分が行われる際には、基本的人権が侵害されたことに関して社会的な対策が何も取られません。これは日本社会の基本理念に関係する重大な課題です。

日本で広く実行されている、精神障害者を不起訴にするもしくは無罪とする社会的処分は、精神障害者に殺された人間や暴行された人間の人権を全て無視するという、コインの裏の側面があります。殺人は人間としての生存権を奪う行為であり、最大の人権侵害です。婦女暴行が許されるならば、女性が守られず、健全な世代交代の継承という社会の基本的な秩序が崩壊します。これらは憲法で守られている基本的人権の要素です。その基本的人権が侵害されても、刑法第39条の処分が行われる際には、基本的人権が侵害されたことに関して社会的な対策が何も取られません。これは日本社会の基本理念に関係する重大な課題です。


7、法律の書き換え

刑法第39条に書かれている基本精神である「自らの言動についての最低の制御能力さへも欠き、行為の善悪に対しての判断力が無い、人間は罪に問うことができない」は日本の社会が維持するべき理念です。しかしながらその事をもって、現行の刑法第39条の法律条文規定が「正しい、間違ってない」ということにはなりません。現実には、この法律の運用に起因する、心神喪失の安易な認定、精神障害者を語る詐病、そして心神喪失者等による犯罪被害者の人権無視もしくは権利回復の障害などの問題が頻発しています。刑法第39条は、検討の必要がない理想の条文であると考えるのは、余りにも素朴にすぎる認識であると指摘できます。

それでは、刑法第39条はどのように書き改められるべきでしょうか。

刑法第39条の国家制度的な課題は、刑事行政と厚生行政の連携が図られた制度になっていないところにあります。このため、一つの考え方は、法務省と厚生労働省の共同主管の法律として一旦刑法第39条を廃止して、新しい法律制度を作り上げることです。そこでは、心神喪失に関して詳細な条件明記が行われることが望まれます。また殺人や婦女暴行などの重大犯罪者は必ず裁判がおこなれなければならないと記述されなければなりません。更に、その上で「心神喪失」で無罪処分となった人間および、刑期を満了した精神障害者でしかも人格障害を有している人間の社会的保護措置などの可能性が言及されなければなりません。

刑法第39条を書き改めることができないもしくは非常に困難である場合には、刑法第39条に関連した政令と省令を法務省と厚生労働省の双方が詳細に策定することが望まれます。政令と省令があれば過去の判例の中で現実に即さなくなっているものは、裁判の判断基準から外されることになります。また、心神喪失者等による犯罪被害者の救済に向けた措置に道を開くことも不可能ではないと考えられます。政令と省令で対応することは、小手先の対応であるとの感は否めませんが、即応性のある対応策であるとも考えられます。


8、現代に活かす古代ローマ法の教え

古代ローマの時代では精神障害者を保護するとは実質的に鎖につなぐことでした。また、精神障害者が寛解することはほとんど期待できませんでした。2000年の時を経た時代の変化を考慮すれば、精神障害者に対する古代ローマ法の裁判基準となっていたマルクス・アウレリウス帝の書簡の現代的な意味は、以下の通りではないでしょうか。

(1) 心神喪失の状態とは、本人が最低限の制御能力を欠き、行為の善悪に対して判断力が無い場合である。精神力動により、頭に理性がもどっている時は除外される。従って、精神障害者であることは心神喪失が適用される十分条件ではない。
(2) 心神喪失の状態にある者は罪に問うことができない。
(3) 精神障害者を装っている犯罪者は処罰される。すなわち、精神障害者手帳を持っていたり、精神科病院への入院患者又は通院患者、もしくは入院通院歴があれば、免責特権を持っていると曲解したり主張する犯罪者は処罰される。
(4) 心神喪失無罪とされた精神障害者は、自由放免されるのではなく、保護対象となる。この保護の目的は、犯罪歴と心神喪失歴がある精神障害者が再度の他害行為を行うことを防止して、市民を保護することである。
(5) 精神障害者を治療している者も、怠慢が実証された場合には、義務不履行で処罰される。

マルクス・アウレリウス帝が1800年以上昔の人間であるにもかかわらず、現代日本の多くの法律家や医師以上に、論理的かつ理性的で頭脳が明晰であることに驚嘆を覚えます。古代ローマ賢帝の見識は、今日の日本の法制と判例や運用で活かされているのでしょうか。日本では古代ローマの人権規定より優れた制度が確立されて、運用されていると言えるのでしょうか。本来課題とされるべきは、古代ローマの水準に達しているか否かではありません。日本の司法制度の法律制定と運用のあり方としても、古代ローマ以来2000年の智慧にかない、人類の未来に展望と希望をもたらすような、より良く改善され優れたものであるか否かが問われます。

残念なことに、現在の日本には次のような現実があります。

精神力道により、頭に理性が戻っているときでも、心神喪失が安易に認定されてきた。
精神障害者であれば心神喪失でなければならない、と運用されてきた。
精神障害者を装っている犯罪者の詐病に対して無作為な現実がある。
精神障害者手帳や精神科病院への通院証を所持しておれば、逮捕されないことがある。
心神喪失無罪処分となった人間の約半数は即日市中での自由行動が許されている。
心神喪失無罪となった人間が再犯罪を犯しても、有効な対策が取られない。
精神障害者で重大犯罪を犯す者の多くは過去に重大犯罪を犯した経歴を有している。
精神障害者を治療している者に怠慢や不作為または過失があっても、ほとんど責任が追及されることがない。

現在の日本の法秩序の実体は、過去に重大な罪を犯した経歴を持つ精神障害者の殺人などの再犯罪に対して無作為で、いたずらに市民を犠牲にしている状況が放置されているのではないでしょうか。精神障害者を真に保護して、精神障害者の人権を守る社会が日本で実現されつつあると言えるのでしょうか。人権とは、普く全ての人間に実現されるものです。ところが、この日本では、特定の者の都合を優先して、他人の犠牲を容認するような法律運用の現実が確立され、それを改善することも難しくなっているのではないでしょうか。他者が犠牲になり生命が犯されることが容認される状況が日本の現実ではないでしょうか。これは、日本の国際社会の中における信用が問われる課題です。刑法第39条は時代の変化を超越して生き残すべき不磨の大典ではないはずです。



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