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統合失調症治療薬を中断する精神医療
精神科病院長に問われるべき資質


平成20年12月22日
矢野啓司
矢野千恵


以下の文章は平成20年11月26日の法廷に提出した原告の文章{意見陳述(矢野)-10}から、被告いわき病院および被告野津純一以外の名称をイニシアル化したものです。

これまでの民事法廷では原告は矢野夫妻で、被告は医療法人社団医和貴会理事長渡邊朋之および野津純一でした。ところが、平成20年11月17日付で野津純一の両親(野津両親)を原告として医療法人社団医和貴会および渡邊朋之を被告とする提訴が行われ、11月26日の法廷で裁判官より両件訴訟を今後は同一法廷で審議する旨の裁定がありました。

これで、殺人事件における被害者側遺族と加害者側家族が共に、殺人者を治療していた精神科病院の医療過誤による過失を争点にして民事裁判を提訴したことになります。被害者側と加害者側が共通の問題意識を持つことは非常に珍しい事例です。(野津両親の主張については本文「11、野津純一の準備書面に関して」を御参考願いたい。)私たちが提訴した民事裁判は、裁判開始後2年半を経過して、大きく動き始めました。私たちはこの裁判を通して、日本の精神医療の問題点が明白になることを願っております。これは、精神障害者と健常者が共生する条件を模索する裁判でもあるのです。

私たちは、これまでにも民事裁判の資料を公開してきました。これは、本件医療過誤裁判が日本の医療過誤事案として、必要な事実関係と証拠資料を提供することで、再検討と歴史的評価に耐え、日本の精神医療の改善と医療制度の改革に貢献することを願っているからです。


{意見陳述(矢野)-10より}

1、いわき病院の引き延ばし戦術

いわき病院は、平成20年11月14日付の第7準備書面で『「処方変更の効果判定をしなかった過失」に対する反論(補充)』を提出したが、これまでの主張の繰り返しや焼き直しであり、議論の進展がなく、時間稼ぎもしくは結論の引き延ばし戦術といったものである。


1)、これまでの主張の蒸し返し

いわき病院が第7準備書面で行った主張は、これまでに原告が「法的に無効である」もしくは「事実の裏付けがない」と指摘したことに対して新たな証拠を提示しないまま主張を蒸し返して、記録にないことを持ち出して、自己弁論を試みている。そもそも、いわき病院の主張には事実を意図的にねじ曲げた主張が多いことはこれまでも指摘してある。

いわき病院が新たな事象を持ち出す行為は、記録がないために証明不可能なことをあたかも事実であるかのように主張して、『事件はいわき病院の過失ではなくて「事情」に過ぎないと主張したい』と希望する意図的な攪乱行為である。


2)、過失・違法・反社会行為の指摘に答えてない

いわき病院は原告が指摘した過失および違法または反社会性行為に関して反論をすべき立場であるにも関わらず、肝心の論点を意図的に避けている。きちんと反論できないもしくはできないとなれば、いわき病院は自らの賠償責任と反社会的行為による社会的制裁を受けることになる。いわき病院は自らの社会的正統性と合法性を証明できなければならない。


2、事実認定は記録と証拠に基づくべき

1)、いわき病院の詭弁と事実認定

いわき病院はこれまでにも、原告の主張や論点を「重箱の隅をほじくるがごとき些細なこと」と主張してきた。そもそも、本件裁判はいわき病院が行ってきた数々の偽証行為を、主張の前後に矛盾(二律背反の証拠)があること、いわき病院の主張が診療録や看護記録に記載された「事実の記録」と矛盾していることの指摘から始まった。いわき病院内が行った精神医療の過失や過誤および違法行為の事実は証言の矛盾に解明の糸口がある。

いわき病院の主張は全く信用できない。「記録や証拠や文献に基づかない、新たな事実や主張を持ち出す行為」は処断され、記録と証拠を元にして事実認定が行われなければならない。そもそも、医療過誤、過失、反社会行為および違法に関連した事象は些細な問題ではない。いわき病院はことの重大性を認識しなければならない。


2)、All or Nothing論の問題

何回も指摘したが、いわき病院の論理は事実と実態から遊離した「All or Nothing論」である。いわき病院がある事象(「問題A」とする)を主張したときに「否定した」事実関係や現象を、他の問題(「問題B」とする)を論じるときには、事実や現象として「容認する」証言がしばしば登場した。いわき病院は「All or Nothing論」という素朴で単純化した論理を用いて、議論の統合的な事実認識と帰結を否定して二律背反の議論を行ってきた。

いわき病院が行う「矛盾(二律背反)する証言」そのものが、いわき病院の過失を証明する証拠である。事実の主張は「問題A」でも「問題B」でも同じである。ご都合主義で矛盾する主張がいわき病院の議論で発見される場合には、その主張を行ったことが故意による偽証である。いわき病院の「事実を攪乱させる行為」は許されてはならない。


3、レキソタンの奇異反応

1)、奇異反応を予見しない抗不安薬の施用

いわき病院はレキソタンの奇異反応を予見しないで統合失調症患者の野津純一に対して処方変更を行った。「奇異反応が発生する可能性に気がついてない」ことを、薬剤師原告矢野千恵に指摘されて、後追いの自己弁解をしている。いわき病院が極めて稀に発生する可能性がある危険な副作用の発現の可能性を考慮しない臨床医療を実施していたことは、過失である。これは、「奇異反応が発生していたか否かの証明」を必然的に伴う問題ではない。


2)、「通常の副作用であるか否か」にこだわり

いわき病院は第5準備書面で「被告野津の11月23日以降の状態をブロマゼパムによる奇異反応と確定することはできない。奇異反応は通常出る反応ではなく、その機序も明確でない現状からすれば、本件でそれが起こったと決めつけるエビデンスはないし、そのような具体的予見は極めて困難である。」と主張した。第5準備書面におけるいわき病院の主張の要点は「奇異反応は通常出る反応ではなく」であり、「通常」であるか否かにこだわっている。原告が指摘する「非常に希なケースであるが、極めて危険な現象」という視点が欠けている。

第7準備書面で、いわき病院は『レキソタンの添付文書には、通常不安や恐怖を和らげ鎮静する作用が主であると記載されている。それに反し、「頻度は少ない」が敵意や攻撃性の亢進が起こることがあるとされ、「通常発生し得る」副作用と位置づけられていない。このような危険な作用が通常起こるならば、統合失調症の治療で併用することの多いベンゾジアゼパム系(レキソタンも含まれる)抗不安剤は既に使用禁止になっているはずである。』と主張した。

明白であることは、いわき病院は「奇異反応は、通常発生し得るか否か」を一貫して問題にしており、原告が主張する「極めて稀な発現率でも、主治医として見逃してはならない重大な副作用である、レキソタン(ベンゾジアゼピン系抗不安薬)の薬剤としての本質」に理解が至らないところであり、そこに過失を発生する原因がある。


3)、稀であるが慎重に考察すべき重大な副作用

いわき病院はレキソタン(ベンゾジアゼピン系抗不安薬)の副作用の一つである奇異反応を、「通常発生し得る」か否かの論理で反論している。これに対して原告は「奇異反応は非常に珍しい事例であるが、レキソタンを統合失調症の患者に施薬する主治医としては、慎重に考察するべき重大な副作用である」、また「奇異反応を考慮しない医療を行うことが過失である」と指摘している。

いわき病院がレキソタンの奇異反応に関して「通常発生し得る」にこだわることは、野津純一の治療に当たって、「通常にあらざる非常に危険な事態が発生する可能性を全く予見しなかった」と自白したことになる。


4)、「レキソタンの奇異反応を考慮しなかった」と自白した

いわき病院は第7準備書面で「このよう(レキソタンの奇異反応)な危険な作用が通常起こるならば、統合失調症に併用することの多いベンゾジアゼパム系(レキソタンも含まれる)抗不安剤は既に使用禁止になっているはずである」と主張した。

いわき病院長の認識では「レキソタン(ベンゾジアゼピン系抗不安薬)は使用禁止にならない抗不安剤であるので、奇異反応などの危険性は考えられない安全な薬剤であるべき(常に、安全でなければならない)」という結論になる。ところで、使用禁止にならない薬剤は全て「特定の条件で発生し得る危険性に配慮してはいけない」という論理はない。

明確にしなければならないことは、いわき病院が「レキソタンが使用禁止になってないから…」と弁明した事実である。これは、「レキソタンの奇異反応が発現する可能性は、処方変更を行った時点では全く考慮してなかった」と自白したことになる。


5)、レキソタンの副作用ではないと主張できない

いわき病院長は12月6日に患者である野津純一の診察希望を拒否しておいて、第7準備書面で「レキソタンの副作用の発生と判断はできない」と断言したことは誤りである。主治医は診察拒否をして、患者の状態を自ら観察しておらず、医師として「レキソタンの副作用ではない」と断言できない。診察もしないで断言した行為は、いわき病院長が誠意ある診察をせず、正確な医学知識と正しい事実に基づかない診断をする医療の実態を示している。


6)、医薬の本質に対する理解不足

いわき病院長は、「統計学的な生体効果と危険性(リスク)」を伴って患者の治療に使用される医薬の本質を理解してない。そもそも医薬とは「毒にも薬にもなる」生体活性物質であり、「望ましい医療効果しか発現しない」という前提はない。その医薬の特質と患者の個体差を勘案して臨床治療を実践するのが医師の責務である。いわき病院長の理解が、医薬の薬効と医師の役割に関して至らないことが、一連の医療過誤の背景にある。


7)、「承認用量外」の大量連続投与と重大な副作用という過失

統合失調症の患者にレキソタン(ベンゾジアゼピン系抗不安薬)が使用許可されるのは「用法・用量」、「使用上の注意事項」を守った範囲内である。いわき病院長が野津純一に対して行った「用法・用量」を無視した大量連続投与は「承認用量外」の使用である。また、統合失調症患者や脳に器質的障害がある患者では「慎重投与(次の患者には慎重に投与すること)」するよう、危険性を注意喚起している。「慎重に投与する」とは、「投与しない方が望ましいが、万一投与する場合には、医師は観察を怠らないようにすること」という意味である。

いわき病院はレキソタンを「承認用量外」の大量連続投与したが、「使用上の注意:重大副作用(統合失調症等の精神障害者に投与すると奇異反応が出ることがある)」に留意してない。向精神薬の「用法・用量」、「使用上の注意」を守れば出ずに済んだ重大な副作用が「用法・用量」、「使用上の注意」を無視したために発現するか、発現した可能性が高いと推定されれば医師の過失である。

野津純一に奇異反応が発現していた蓋然性は極めて高い。(いわき病院は、誰も処方変更の効果判定の認識を持って野津純一を診察せず、医学的な証拠も残さないため、奇異反応が発現していたか否かの確定的な証明は不可能である。それでも、野津純一が矢野真木人殺人事件を引き起こした時点では、奇異反応が発現していた蓋然性が極めて高い。)

精神保健指定医のいわき病院長が、奇異反応を考慮せず、「承認用量外」の大量連続投与をして、重大な副作用に関して合法的な薬事判定をしなかったことが過失である。いわき病院は奇異反応出現を予期せず診察もしなかったので、奇異反応が発現していたとしてもその事実が記録されず、本来的に奇異反応が発現したことの証明ができないが、このことでいわき病院が免責されてはならない。

いわき病院の過失責任が問われないならば、無知なる医師は無知なるが故に医療過誤に関連した記録を残さないので、過失を犯しても免責される道が残されることになる。真面目に医療を行った医師が非常に希な不幸な事例に遭遇して、詳細な記録を残していたが故に過失責任が問われるが、他方では医療知識が不足して不真面目な医療を行っていた医師が残した記録が不完全であるがために過失責任に問われないとしたら、公序良俗の道理が通らない。これでは悪貨が良貨を駆逐することになる。

本件裁判では処方変更と奇異反応の発現に関しては、処方変更の効果判定にかかる過失と違法行為が確定すれば、奇異反応が発現したことの証明をする必要はないと指摘する。


8)、承認用量外の大量連続投与かそれとも無施薬か

いわき病院の医療は患者の体調と症状にあわせて至適用量に薬用量を調整する配慮を欠く医療である。いわき病院は統合失調症の患者である野津純一に対して抗精神病薬の中断をした。手足の振戦に対しては「心気的なもの」と誤診してアキネトンの筋注を中断して、レキソタンは「承認用量外」を大量連続投与をした。主治医渡邊朋之医師は「過剰な連続投与を行うか、それとも無施薬か」という極端から極端に走る医療を行った。いわき病院は、処方変更の効果判定を責任ある有資格者が行わず、本質を理解せず目的意識を持たない無資格者の感想をもって処方変更の効果判定をしたと法律違反の抗弁をした。


9)、主治医が攻撃性を誘発した可能性

統合失調症患者は「ストレス脆弱性」が病気の基軸であり、原告は主治医渡邊朋之医師の「診察拒否」が野津純一の「攻撃性発露の最後の一押」をしたと考えている。

統合失調症患者は伝えたい気持ちは山ほどあっても、言葉にして発語することがうまくできず、脳内の「気持ちを言葉にするところ」に障害があると考えられる。このため、「表現したいのに表現できない人に代わって治療者が表現してあげる」、また「患者さんの気持ちをすくい上げて言葉にしてあげる」が治療の第一歩である。いわき病院長が主張するように「患者自身が言葉で言わないから、分からない」では精神科医師としては十全ではない。野津純一は治療者に期待していた分だけ診察拒否された失望感は大きかったはずである。


4、顔面にあったのはニキビか根性焼き瘢痕か?

1)、渡邊医師は左頬に瘢痕を確認していた

いわき病院の第2準備書面では「主治医は面接中、被告野津が左手の爪で頬を掻いている行動を見たことはあるが、この頬にはニキビが潰れた引っ掻き傷が見られただけである。被告野津は入院中の面接で度々そのような行為を見せたことはある…」、また第7準備書面では「面接は、医師と患者間の距離約1mで座って行い、被告野津は時折貧乏揺すりのように下肢が動くことはあったが、顔面は多数のニキビ類を中心にあり、面接中にも爪でつぶしたりしていた。タバコでの根性焼きのことは話にも出なかったが、渡邊院長も被告野津の顔を見ながら面接を行ったが、根性焼きの痕跡を認めることはできなかった。」と主張した。

いわき病院は病院長渡邊朋之医師の観察として「ニキビであり、根性焼きの瘢痕ではない」と証言した。これは、「ニキビ」か、はたまた「根性焼き瘢痕」と結論づけるにしても、その原因と診断はともかく、「野津純一の顔面にある多数の瘢痕の存在」は1mの距離から患者の顔面を観察した医師として「あった」と確認証言した。


2)、36才男性の左頬に限定して発症したニキビ?

いわき病院長は「ニキビである」と確信的に主張するが、原告はニキビと結論づけることには疑問を持つ。野津純一は36才であり、ニキビを発症する年齢ではなく、顔面にニキビがあるとするのはおかしい。ニキビは普通では額に出現し、頬に発現する場合でも左に限定されることは無く、頬にあれば両側に等しく発見されたはずである。「36才の男性の左の頬だけに特徴的な瘢痕」をニキビと診断することが、そもそもいかがわしく、他意が推察される。


3)、患者に異常性を発見しない診療態度

いわき病院長は「根性焼きの瘢痕」と認めないで、とりあえず「ニキビとして」状況の沈静化と、責任回避を意図している。その意図が走って「額にはないのに、左頬だけに発症するニキビ」という診断を持ち出したのである。このような逸脱した診断を決めつける行為は、いわき病院長渡邊朋之医師の臨床医としての資質の現実を物語っている。

野津純一は「面接中にも爪でつぶしたりしていた」といわき病院長に観察されていた。「左頬を掻くような仕草が頻回にみられた(答弁書)」行動は「左頬の火傷痕が治癒する過程でかさぶたが形成される頃で痒くなったために掻いた」ものと考えられる。いわき病院長は「36才の男性の左の頬のニキビ」という「通常ではあり得ない症状」に「異常性の認識」を持たず、眼の前にいる患者に「爪でつぶしたりした」行動を観察しても、それを確認することもしてない。「頬の傷について被告野津自身から語られたことは一度もなく」というが、「いつも左頬だけを掻く仕草が頻回見られた」のに、主治医は一度もそれについて質問していない。

いわき病院長がニキビと即断せずに、「おかしいな」という疑問を持って観察しておれば、野津純一の「敵意や攻撃性の亢進」の徴候を発見できた可能性が極めて高い。「ニキビ」と主張することこそ、「真面目に診察をしない、怠慢と過失の証明と自白」である。


4)、瘢痕を傷と言い換えても事実は変わらない

いわき病院は第6準備書面等では「根性焼きの瘢痕」の存在を否定して「顔面の傷は全く確認していない」と頑なに主張した。「左頬のあずき大の傷は犯行直前の防犯カメラに映った野津純一の左頬の特徴で、警察がそれを基に捜査していたこと」は一切無視して、「野津の供述でしかなく、それは妄想や幻覚に基づくものである可能性も否定できない」と固執した。第7準備書面では一転して顔面にあった異常を認めたが、「ニキビは顔面の傷ではない」と巧みに言葉を違えて瘢痕を傷と混同させて曖昧にする意図があるが、主治医の渡邊朋之医師が野津純一の左頬にニキビと判定した瘢痕を認めた事実は存在する。いわき病院がニキビと主張することは、野津純一が表現した根性焼きの存在を認めたことになる。


5)、12月5日に内科医の風邪薬処方と医師の証言

いわき病院の診療録によれば、12月5日に内科のM医師が風邪薬を処方したが、M医師が野津純一の左頬を観察した記録や証言をいわき病院は提出しない。また、いわき病院が主張する病院職員が野津純一の顔面を観察したとする証言は、「意見陳述(矢野)-1」で、遠距離からの見かけであり症状の観察としては成り立たないと指摘してある。


5、処方変更の効果判定

1)、法的有効性に関する指摘に答えてない

いわき病院は「処方変更の効果判定をしなかった過失はない」と第5準備書面と第7準備書面で主張した。これに対して「作業療法士や金銭指導員の感想の記録では法的に有効な効果判定ではない」と原告は指摘したが、この点に関していわき病院は答えない。原告の指摘は処方変更の効果判定行為が適法であるか否かであり、回答しないでは済ませられない。


2)、抗精神病薬の中止という未必の故意

いわき病院長渡邊朋之医師は、罹病歴20年余の統合失調症患者である野津純一の統合失調症治療を中止(抗精神病薬の中断)してムズムズの改善をしようとしたので、ムズムスが改善されなければ統合失調症治療を再開するのは精神科医師として当然の務めである。ところが、いわき病院長は「統合失調症の治療再開は、陽性症状が顕著になってからの注射対応でよいと考えた。これは、精神科医師として破瓜型が主症状の統合失調症である野津純一の治療を怠ったことを意味し、渡邊朋之医師は主治医として未必の故意がある。


3)、プロピタン血中濃度の変化といわき病院長の判断ミス

野津純一は、抗精神病薬投与が中止された後プロピタン血中濃度が徐々に低下して「過剰」から「至適用量」になった時期はあったが、その時期を過ぎれば、抗精神病薬の血中濃度が下がり精神症状の悪化が見られることは精神科医なら予想して当然である。抗精神病薬の血中濃度が下がりすぎない時期に薬剤効果判定をして、統合失調症治療(抗精神病薬投与)を再開することは精神科医師の義務である。いわき病院長は野津純一の抗精神病薬血中濃度低下を考慮せず、症状の変化に無頓着であった。

いわき病院が「抗精神病薬過剰から至適用量の間にある間、野津純一の体調は良かったから、その後の精神症状の悪化はない」と断言することは誤りである。「野津純一は統合失調症ではない」と誤診をした過失がある。いわき病院長が「野津純一の統合失調症を的確に診断していた」と固執する場合には、遅発性ジスキネジアが改善されなければ直ちに統合失調症治療を再開しなかった過失、もしくは「患者を社会的に守れなくてもよい」とする未必の故意があったことになる。

症状が発現する二週間前に診療録に「幻覚強いときトロペロン注射」と記載しても直前の医師による診察なしで看護師に注射させようとするのは医師法(無診察治療禁止)違反であり、看護師の判断でトロペロン注射を行うことも医師法(非医師の医業禁止)違反である。


6、処方変更とインフォームドコンセント

1)、「野津純一に再確認した」という裏付けがない

いわき病院は第7準備書面で『「足が勝手に動く」という野津本人が一番何とかしてほしい所見、それに付随するイライラが長期の種々の向精神薬服用からきており、また安易に抗パーキンソン剤のアキネトンを注射するとその作用生じること、・・・・、レキソタン(ベンゾジアゼパム系薬剤)とヒベルナ(抗ヒスタミン剤)のみにして、足が勝手に動くという不随運動の治療を行うことを被告野津に再確認した。』と述べた。しかしながらいわき病院長が主治医として「野津純一に再確認した」事実はない。

診療録や看護記録などに記載されてないことを、遅蒔きながら主張しても、事実であったとする裏付けが得られない。いわき病院の主張には客観性が認められない。


2)、処方変更は一方的な押しつけ

平成17年12月2日のいわき病院の看護記録には「野津純一に再確認した」とする主張を否定する記述がある。野津純一の言葉として「内服薬が変わってから調子が悪いなあ。院長先生が『薬を整理しましょう』と言って一方的に決めたんや」と記載されていた。

12月8日の香川県警渡邊朋之医師の供述調書では「ムズムズ感については、薬の多用は野津さん自身にとって良くありませんので、何とか薬の投与をしないようにしても野津さんは絶対に聞き入れず、毎日のように同じ訴えをしますから仕方なく、薬(屯服)を投与したり、場合によっては薬でも何でもない生理食塩水を注射したりしていました」と、「野津さんは(処方変更を)絶対に聞き入れず」と主治医自らが供述していた。

上記の記録により、野津純一が主治医の処方変更に納得してなかったことは明白である。いわき病院長で主治医の渡邊朋之医師が、野津純一に再確認した事実はない。


7、手足の不随運動と心気的という診断

1)、手足振戦と抗パーキンソン剤注射の全面中止

いわき病院は第7準備書面で「安易に抗パーキンソン剤のアキネトンを注射するとその作用生じること」と述べたが、その意味が不明である。いわき病院長が定型抗精神病薬を使用する以上は(定型抗精神病薬中止後も含め)副作用の手足振戦が出た場合の第一選択薬は抗コリン性抗パーキンソン薬である。アキネトンの過剰投与は慎むべきとしても、常用量内で用いるべきである。野津純一に発現した「手足の不随運動」は「気の持ち方」に左右されることはあるが「確かに存在する」実態を持った症状である。このため抗パーキンソン剤を全面中止するのは医師としては間違った判断である。いわき病院長が「手足振戦は気の持ち方のみ」と断定したのは誤診であり、また治療放棄である。


2)、非定型抗精神病薬を単独処方した事実はない

いわき病院は第7準備書面で「新しい非定型精神病薬を試してもその症状は軽減されないことを野津純一に説明した」と主張したが、「新しい非定型抗精神病薬単独処方」をした事実はなく、「野津純一に説明した」と主張することはできない「意見陳述(矢野)-9」。

行ってもいない、非定型精神病薬単剤使用の患者説明はあり得ない話である。上記6、の「処方変更とインフォームドコンセント」でも指摘したが、いわき病院長はそもそも患者である野津純一に対して説明義務を果たしていない。


3)、生理食塩水筋注の効果

野津純一が最初に矢野真木人殺人を自白したきっかけは、「取り調べに当たったZ検事が若くて優しそうだったから」と説明した。野津純一の特徴的な行動パターンであるが、本人から見て魅力的で見栄えのする人間が自分に関心を持ち優しそうに声をかけると、一時的にせよ喜びを感じて気分が爽快になる状態が発生する可能性が高いと観察される。刑事裁判においても担当のT検事に対して野津純一が品をつくっていたが、野津純一は自分より権威があり優しそうな人間の関心を引きかまってもらいたい傾向があることは明白である。

しかしながら、統合失調症患者は症状の日変動が大きい。12月2日と3日は病状が良くても次の日によいとは限らない。ましてや抗精神病薬を中止していたのである。精神症状が日毎に悪化していたとしても不思議ではない。

いわき病院が主張する12月2日の生理食塩水筋注で「メチャよく効きました」は、筋注をしたのが野津純一には魅力的な正看護師(「高看」と呼ばれている)だったからで、野津純一は有能で優しそうな人にかまってもらうと嬉しさを感じて心が落ち着いたのである。野津純一のように奇異反応が懸念される患者であっても、常に攻撃的な行動をするのではない。野津純一のように他者との関係で自己を認められたいと願っている様な人間の場合は、大切にされたか尊重されたと感じるときには、攻撃性が抑制されて善良な側面が前面に出てくるのであろう。

野津純一がK大学病院で当時の主治医のS医師を刺そうとして未遂に終わった事件がある。このS医師に対してはいわき病院に入院中の診療録に「ボクと医大のS先生は結婚できますか。」と平成16年10月21日に主治医のN医師に質問した記録が残されている。この発言は准看護師を襲ったのと同じ日に行われた。野津純一には「他人に対する攻撃性」と同時に「他人にかまってもらいたい願望」が現れる傾向がある。生理食塩水を注射された後で「メチャよく効きました」という発言の後で攻撃性が発現する可能性は十分ある。


4)、ムズムズ時のアキネトン筋注はなかった

いわき病院長は「ムズムズ時には生食1ml筋注とする」と12月3日の診療録に断定的に記載した。いわき病院長が主張する「訴え時には、最初に生食を打ち無効ならアキネトン使用の指示」との記載は12月3日の診療緑にはない。事実、野津純一は看護記録ではあれだけ足の不随運動を訴えていたのに、11月23日以降は一度もアキネトン筋注をしてもらえなかった。いわき病院長渡邊朋之医師の主張は野津純一に対して行われたいわき病院で行われた医療の事実を証言してない。


5)、外泊とレセプト不正受給

平成17年10月の5回の外泊は看護記録によると(10月1、7、8、14、15、20、21、22、28、29)の10泊であるが、レセプトでは外泊は6泊(10月1、8、15、21、22、29)で、夜間勤務等看護を25日分受給しており、レセプト不正受給があった。


8、医療過誤とCPK検査

1)、通常に発生する症状と稀な現象

いわき病院長は野津純一の主治医を交代したときに行った各種検査の中でCPK(クレアチン・ホスホ・キナーゼ)検査を行い、「アカシジアにしてはCPK値が低い」という誤った診断をしていた。CPK検査は日常の診断では用いられない検査であり、非常に稀に発現する患者に用いるべき検査を臨床で行い、しかも判断を間違えた。このことから類推すれば、いわき病院長は「通常発生し得る」をレキソタンの奇異反応に関する最大の弁明理由にしているが、いわき病院長には統計学的な裏付けがある医学的症状の発現に関連した「通常」と「稀に」の認識の違いができていない疑いがある。


2)、渡邊医師の医療過失

いわき病院は野津純一に対して統合失調症の治療を中断したままで再開しなかった過失がある。CPK検査の意味を誤認して、野津純一の足のムズムズやイライラを心気的なものと誤診して生理食塩水で治療しようとしたことは過失である。定型抗精神病薬副作用の手足振戦の第一選択薬は抗コリン性抗パーキンソン剤であり、しつこく物事にこだわる強迫性障害の第一選択薬はSSRI抗うつ剤である。補助的にしか用いられない抗不安薬を手足振戦と強迫性障害の第一選択薬として承認外用量を連続投与したのは誤りである。精神障害者に投与すると奇異反応が出る可能性がある抗不安薬を承認用量外で大量連続投与したことは過失である。また処方変更をした2週間後に患者が心身不調を訴え、主治医診察を願い出たのに、それを却下したわずか2時間後に矢野真木人殺人事件は起きた。


3)、CPK検査を弁明する義務

入院患者から「ほぼ毎日継続する特定の薬に対する要求がある」ことは「処方薬がその患者にとって十分ではない」ことを示し、処方見直しが必要である。野津純一の場合は抗コリン薬が不足していた。野津純一の足の不随運動は「気の持ち方」のせいだけではあり得ない。(これに関連して、いわき病院はCPK検査に関して、弁明する義務がある。)


9、渡邊医師の診察時間と診察拒否

1)、「夜7時から30分かけて行われた?」12月3日の診察

いわき病院長は第7準備書面で、「(12月3日には)午後7時頃に面接を診察室で行った。精神科の面接であるので、時間は30分ほどであった。」と主張した。その上で、「被告野津本人の言葉数は少なく、精神症状の再燃について(…)尋ねても、…、「もういいです」と何も語らなかった。また、裁判中に被告野津が述べたタバコのことやドアの音についても一切話はなかった。………。次回の診察を12月6日の外来診察後にする予定であった。」と主張した。

この主張が正しければ、なぜ12月6日に診察拒否をしたのか原告は理解できない。12月6日の看護記録には「先生にあえんのやけど。もう前から言っているんやけど、喉の痛みと頭痛が続いとんや」と記録され、原告には野津純一の声高で泣くような声が響く。

原告は診療録に記載されている12月3日の診察は、矢野真木人殺人事件直後にいわき病院長の手によって追加記載された可能性が極めて高いと考える。もし診察が実際に行われていたとしても、もっと遅い時刻(被告が寝ているような時刻)ではなかったかと疑う。(現実に、当時いわき病院に勤務していた看護師は、深夜の回診が頻繁にあったことを原告に証言した。)これを裏付ける間接証拠としては、12月3日の16:45分と21:30分の看護記2録の間には「診察をしてもらった満足感」や「訴えを聞いてもらった満足感」の差が現れてない。いわき病院長が第7準備書面で新しく持ち出した証言には各種の記録から説得されるべき裏付けがない。

なお、平成17年12月のレセプトでは「入院精神療法(Ⅱ)」の請求をしておらず、レセプトの記録上では12月3日の精神科面接をしていなかったことになる。記録が明らかにしている現実は、主治医渡邊朋之医師の証言が虚偽である可能性を示唆している。


2)、「12月6日には診察拒否した」と証言していた

いわき病院長は第7準備書面で、「12月6日には野津純一に対して診察拒否をしていた」とするこれまでの主張から転換して、『12月6日朝10時に「喉が痛い」との訴えについて看護から報告があったが、薬が処方されていたこともあり、渡邊院長は外来診察後に診察する旨伝えている。』と主張した。ところが第4準備書面では「12月6日も同様の風邪症状による喉の痛みであったため、渡邊医師は外来診察を中止し、緊急に野津の診察をしない判断をしたのである。これは医師として間違った判断ではない。」と「医師としての診察しない判断をした=診察拒否」の事実を断定的に主張していた。第7準備書面の主張は、「一旦証言した後で、ことの重大さを認識して、あわてて前言を翻した」という虚偽証言である。


3)、「診察する旨伝えた」とする事実の裏付けがない

いわき病院長は12月6日の診察拒否をしたときには、「後で診るから、待っていなさい」とも「外来診察後に、順番が来たら診察室に来なさい」とも伝えてない。そのような記録は一切ない。あるのは、主治医として担当している患者である野津純一が、診察してもらえないことを知って悲鳴をあげた、怨嗟と落胆の声である。

これまでいわき病院長は、12月6日の診察拒否をした事実を気軽に容認してかつ本件裁判における第4準備書面でも「緊急に診察をしない判断をした」とまで断定しおり、診察拒否をした証拠は揃っている。事件から3年を経て、また本件民事裁判が提訴されてから2年半を経過して、「渡邊院長は外来診察後に診察する旨伝えている。」と主張することは、原告には事実確認ができないだろうとたかを括った、責任逃れの虚偽発言である。これまでのいわき病院の証言および看護記録などの証拠と第7準備書面の主張は矛盾する。


10、統合失調症患者と暴力行為

1)、総合性に欠ける医学的視点

原告はいわき病院に指摘しているが、いわき病院長の医学的視点は「All or Nothing論」で偏っており、総合的な視点や判断力に欠けており、その診断には矛盾が多い。


2)、自傷他害の可能性を否定していた

いわき病院はこれまで頑なに野津純一に関して「任意入院患者であり、自傷他害の可能性を予見することはできない」、また「統合失調症と反社会性人格障害は二重診断できない」と答弁書や数々の準備書面で繰り返し主張してきた。野津純一の暴力行為の可能性に関しては「レトロスペクティブであれば後付で認められるが、プロスペクティブには予想不可能であった」と頑強に主張してきた経緯がある。


3)、野津純一には攻撃性があると確定証言した

第7準備書面でいわき病院は「原告の主張からは、被告野津が過去に衝動的、攻撃的行動の亢進と思われる問題行動を被告病院以外の治療の場で起こしていることの合理的説明ができないはずである。いずれも被告病院主治医が知り得ない事実であったが、例えば、O総合病院の窓を壊す、S医師を刺そうとする、烏骨鶏のことで隣人宅に怒鳴り込むなどの事実は、被告野津にはレキソタンの服用如何に関わらず、突然攻撃性や刺激性が生じることがあったことを物語っており、レキソタンの特異性を指摘するのは的外れである。」と主張した。

上記のいわき病院の主張の目的は「原告が主張するレキソタンの副作用の可能性」を否定することが、文章の本来の目的である。しかし、この文章は野津純一個人の統合失調症患者としての特性として「突然攻撃性や刺激性が生じることがあった」と確定証言した。いわき病院長は「これは、レキソタンに関する論点であり、他の論議では『野津純一には攻撃性はない』ことになっている」と主張する可能性がある。精神保健指定医としてのいわき病院の資質と信頼性が問われる主張である。


4)、レキソタンの使用と攻撃性の発露亢進

上記3)の攻撃性の発現はレキソタンとは関係がない。レキソタンを使用しなくても攻撃性が発露した既往症のある患者は「攻撃性が出やすい患者」である。その患者にレキソタンを承認用量外の大量を連続投与すれば、奇異反応を含む攻撃性が発現する可能性が格段に高くなる。


5)、現在症として攻撃性を診断したか否か

野津純一に「攻撃性の人格障害」を臨床的事実としていわき病院長渡邊朋之医師が「現在症として診断していたか否か」は本件裁判における重大な事実関係である。いわき病院長はレキソタンの奇異反応を否定する意識が先走るあまり、第6準備書面までとは逆の証言をした。『そもそも野津純一には「突然攻撃性や刺激性が生じるという生来の患者特性があった」、従って「殺人事件の発生をもって、新たな現象としての奇異反応発現と確定することはできない」と主張したのである。


6)、医療過誤と主治医の過失

処方変更の責任は主治医にあるが、主治医は処方変更後の病状把握も法的有資格者により行っておらず、渡邊朋之医師は「診察拒否」をすることで、野津純一が生来持っていた攻撃性が発現する後押しをした。野津純一の攻撃性発露の責任はいわき病院長の「処方変更と処方変更の見直しをしなかった未必の故意と、診察拒否の過失、および単独外出許可の過失」にある。


11、野津純一の準備書面に関して

平成20年11月17日付で野津純一から準備書面が提出されたが、その内容は

  1. いわき病院長渡邊朋之医師が主治医であるにもかかわらず野津純一を診察しなかった過失
  2. 野津純一を主治医渡邊朋之医師が単独外出させた過失
  3. いわき病院の監督義務違反による責任


  4. を、明確に指摘して、以下の通り結論づけた。

  5. いわき病院は野津純一がなした矢野真木人殺人事件に関して、原告に対して損害賠償の義務がある。

上記は、野津両親の基本的な考え方と視点および希望であると原告は理解している。原告夫妻は息子の命を奪われた両親として、また、野津両親は犯人の両親として、「殺人事件を引き起こした野津純一の行為を、引き留めることができる可能性があったのに、それを行わなかったいわき病院を心底情けなく思う心」を共有している。いわき病院と同病院長渡邊朋之医師がしっかりして、精神医学の基本を忠実に実行さえしていたら、矢野真木人殺人事件は発生しなかった蓋然性が極めて高く、無念である。

通常の場合、殺人事件が発生した後で、殺された被害者の両親と、殺した加害者の関係者が意見を共有することは極めて稀である。本質的に両者の立場は異なるからである。それでも、被害者である矢野真木人の両親と加害者である野津両親が共に、いわき病院と同病院長渡邊朋之医師の精神医療に過失があると指摘しているところを、いわき病院は重く受け止めなければならない。原告夫妻と野津両親夫妻は、立場は異なるが、いわき病院の精神医療の過失を共に嘆いているのである。


12、精神科病院長に求められる資質

いわき病院長はそれでも「野津純一の突然攻撃性や刺激性はレトロスペクティブにのみ知り得た情報である」と主張するであろう。しかし野津純一の反社会性人格障害の症状は平成16年9月21日の入院前問診でいわき病院に父親から伝えられていた。いわき病院が実施した数々の心理検査などでも野津純一に攻撃性がある可能性が繰り返して指摘されていた。各種の問診でも野津純一自ら証言していた。またいわき病院に野津純一が過去に入院していたときには「攻撃性の治療」を課題にすら挙げていた。

いわき病院長は、数年も前の他の病院の他の医師の診断を自らの主張の根拠として繰り返して主張するにも関わらず、他の病院の他の医師の野津純一の攻撃性の記録に関してだけは「知り得なかった」としている。そもそも、いわき病院長は自らに都合がよい情報だけを知り得て、都合が悪いとなると「事前には知り得ない」と手前勝手な情報の選別を行っている。この様なご都合主義は世の中には通用しないと知るべきである。

そもそも、患者の精神症状に関する情報の全体像を把握して理解することができず、医学的知識に誤りが多く、診断と証言を信頼できない医師でも、先端医学を推進していると自負するこの日本では病床数248の精神科病院長の任に当たることが可能であり、しかも国立大学病院の精神科外来を毎週定例日に担当することができることが間違いである。

日本の精神医学を改革するには、まず第一段階として、いわき病院と同病院長渡邊朋之医師の医療過誤と過失および反社会的行為と違法行為が認定されて、責任が明確にされる必要がある。このことが社会の中で責任ある精神医療を確立する大前提である。


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