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いわき病院事件裁判反論
いわき病院の過失責任と殺人の高度の蓋然性


平成23年2月3日
矢野啓司・矢野千恵


まえがき

匿名で「精神障害者の人権尊重」また「行政機関等を相手にした大衆運動」等の助言をいただきました。私たち夫婦は社会の善を信じます。また理性により人間性豊かな社会が形成されると確信します。私たちは匿名ではなく名を名乗り、数を頼る発言や行動はしません。私たちはいかなるグループや職能団体の代弁者でもありません。これまでも私たちは匿名の方と意見交換した経験があります。匿名でもご意見を裏付ける背景を伝えて下されば、いただいたご意見から具体的かつ前向きに思考することは可能です。お名前は無理でも、せめてメールアドレスぐらいは教えていただきたく存じます。

認識していただきたいことは、私たちは矢野真木人を通り魔殺人した犯人に(死刑廃止論者ではありませんが)死刑を請求せず、精神障害による心神耗弱の減刑を容認しましたが「有期刑は必須」と主張しました。刑事裁判は平成18年6月に終結して、慢性統合失調症の犯人は減刑された上で懲役25年が確定して、現在医療刑務所で服役中です。私たちは、この処置は犯人本人のためにも社会のためにも最善の処分だったと確信します。

私たちが刑事裁判判決の日に提訴した民事裁判の基本構造は、殺人事件の加害者と被害者の協力関係です。犯人の両親は私たちの説明を理解して、また法廷における私たちの主張などを検討して、裁判開始2年後に原告として参加しました。被告は加害者本人が入院治療を受けていた精神科病院です。決断までに至るご両親の心に大きな苦悩があったことを承知しており、心から感謝します。しかしこの関係は、お互いの心に重くのしかかる深い傷を常に認識しつつ維持されます。共に、耐えられないほどの心の重荷を背負っており、お互いにその立場を尊重した関係です。また私たちが協力関係を形成し長期に維持していることそのものが希有な例であることにもご理解をいただきたく存じます。私たちは一般論で「精神障害と健常者の普遍的な人権」を議論しているのではありません。法廷の審議は「一人の精神障害者に病院内で発生した事実」を元にして行われています。ご意見を下さる場合には、お名前は無理であっても、自らの姿を伝えていただきたく存じます。

私たちの手法は、沢山の方々を驚かせたようで「矢野夫妻は何者だ?」と言われます。私たちは「矢野真木人の理不尽な死」という現実がなければ、素直に「日本では人権は普く平等」と考えておりました。しかし、事実は違っており、社会にそれを明確に伝え確認してもらう第一段階として「精神科病院を相手にした、犯人の両親と共同原告として戦う裁判」を覚悟しました。これは「矢野真木人が生を受け通り魔殺人されたことによる、死した本人に唯一残された社会貢献」と考えます。私たちは、理性に基づいて対話と審議により、法廷の判決を通して、社会の意思による着実な変革を求めます。日本が普遍的な人権を尊重する法治社会に至ることを信じて行動します。


◎いわき病院が提出した準備書面に対する反論

以下の文章は、いわき病院が平成22年12月17日付で提出した準備書面「因果関係に関するいわき病院の主張」に対する私たち原告矢野の反論です。以下では、「原告矢野夫妻 損害賠償請求事件」と「原告野津夫妻 損害賠償請求事件」双方の訴訟を合わせて「いわき病院事件」と表現しました。


裁判促進のお願い

原告矢野はいわき病院の精神医療の錯誤と怠慢及び過失は既に証明済みと考えます。いわき病院はこれまでにも「平成17年11月以降のカルテ記載日の変更や、薬事処方に関する証言内容の変更を繰り返した」など、本来ある筈がない「基本的な事実の訂正」を行いましたが、今回も「事実関係の否定」および「同じ論理を繰り返した堂々巡りの主張」、「いわき病院側の鑑定書作成にかかる鑑定人の選定で時間を浪費」しています。また「既判例を持ち出して、医療上の錯誤や怠慢には矢野真木人殺人事件に至る高度の蓋然性は無いと主張」しました。判例の説明で事実関係の描写が明瞭でなく、判決論理の説明も曖昧で、更に言葉を言い換えるなど混乱を持ち込んだ上で「医療過誤はあっても過失責任は認定されていない」と主張しており、弁明のための弁明です。

いわき病院が今回提出した論理で重要な点は「病院側に医療錯誤と過誤があることを前提にしている」こと、および「高度の蓋然性が証明されるためには、外出許可入院患者が十中八九の確率で殺人する」ことを主張した所です。この論理は外出許可入院患者の病院外殺人を容認しています。この帰結として、いわき病院の何れかの入院患者が外出許可中に殺人することは必然で、犯人が野津純一で被害者が矢野真木人であったことは結果です。既に事件から5年を経過しており、裁判を速やかに結審していただけることをお願いします。


I、項目別反論

本反論の項目立てはいわき病院準備書面と同一です。(なお、この報告で、いわき病院側の文書の要約を掲載すれば読者の理解は容易です。しかし、いわき病院側が行った判決文の要約には、重大な情報の欠落や論理の飛躍、意図的な言葉の混乱が散見され、意図的な誘導が感じられます。このため、それを更に要約して紹介するには慎重でなければならないと判断しました。以下の文書では、いわき病院の主張のポイントを記述してあります。)


1 「はじめに」に関して

「いわき病院事件」に関していわき病院は過失に関する原告の主張として、以下の「各項目を個別に議論」して、「殺人事件が発生する高度の蓋然性は無い」と反論しました。

    (1) 統合失調症を的確に診断できなかった過失
    (2) 反社会的人格障害を診断できなかった過失
    (3) 統合失調症に抗精神病薬(プロピタン)を中止した過失
    (4) レキソタン(ベンゾジアゼピン系抗不安薬)を大量連続投与した過失
    (5) 処方変更の効果判定をしなかった過失
    (6) 効果がない社会復帰訓練を行った過失
    (7) 本件犯行当日に野津の診療をしなかった過失
    (8) 患者管理上の過失
    (9) 本件犯行日野津に単独外出を許可した過失

いわき病院が行った過失は相互に連関しており、野津純一の病状が悪化している状況を見逃して、過失に過失を重ねたことで、飛躍的に他害(=殺人)の危険度を高めました。また「(7)」の記述は正確ではなく「犯行当日に主治医が看護師から伝えられた野津の診察要請を拒否した過失」です。その上で、いわき病院は、最も重要である以下の2点を欠落した論理を主張しており、いわき病院内で野津純一に対して行われた過失責任に至る精神医療の錯誤と怠慢を正確に表現しておりません。

    (10) アカシジア(イライラ・ムズムズ・手足の振戦等)の診断と治療を間違えた過失
    (11) 根性焼き(顔面左頬にタバコの火で自傷した瘢痕)を発見できなかった過失

野津純一のアカシジアに対して、渡邊医師が「CPK値が低い」と「大量のドプス投与でも効果がなかった」ことが「アカシジアは心気的と誤診」する原因となりました。主治医は自らの知識不足により、万策尽きた状況に陥り、その上で処方の間違いを自己誘導して、抗精神病薬を中断し、抗不安薬を大量投与する動機になり、患者にプラセボと称して生理食塩水筋注を続けストレスを与えた上に、患者からの診察要請を拒否する理由になったと考えられます。これは事件発生の重要ポイントです。全ての精神科医師が「ドプス投与」を知って呆れ「医師には裁量権があり、医療過誤にまで結論づけるべきではない」と擁護していた医師までも、直ちに問題の本質(=知識不足)を理解して「これでは助けられない」と態度を転換します。精神科医師として基礎的な知識の間違いは決定的です。


2 「因果関係に関する法的主張」に関して

(1) 「総論」に関して


ア 「(医療訴訟における医学的治験と判断と法的判断)」に関して

  いわき病院は「医療訴訟においては、医学的知見・判断と法的判断は基本的に一致することが求められることになる」と主張しました。そもそも医学的知見と判断の論理は法的判断の論理とは異なります。また臨床医療は社会の中における実践です。「いわき病院事件」は学会論争ではありません。いわき病院と渡邊医師が実践した臨床精神医療の合法性と合目的性が課題です。「医療訴訟においては、事故が発生した時に主治医が行った医療行為に、その当時の医学的知見と法律に照らし合わせて違法性と過失性が認定できるか否かを判定する」ことが大前提です。


イ 「(自然科学的な証明の必要性と過失責任)」に関して

  いわき病院は、「因果関係の存否は、客観的かつ現実的な問題であるから、本来的に自然科学的な証明が必要というべきであり、経験則という不明確な要素によってのみ判断されるべき事柄ではないのである」、また「訴訟上の因果関係の有無は、客観的・科学的に検討されるべきであって、その結果、科学的確実性をもって因果関係が証明されない場合には、基本的に不法行為は成立しないと解するべきである」と主張しました。しかし、精神医療は人間の心神の疾患を取り扱うものであり、本質的に自然科学的な証明は困難で、事実に基づいて証拠を積み重ねた医学的実績(エビデンス)と統計的な解析と経験則に則して、その時代に即した医療指針が定められ、医療制度が実施されております。また統計学は自然科学の主要な解析と証明の手段ですが、いわき病院が主張する科学的確実性の論理はこれに理解が至らず、直接的な因果関係のみを自然科学的としています。

  いわき病院は、過失の認定には「一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合的に検討は間違い」で、「本来的に自然科学的な証明が必要」と主張します。この論理をいわき病院が主張する通り当てはめれば、自然科学的な証明が困難な精神医療を近代医療から排除して、科学的な根拠のないインチキ医療の領域に分類するものです。自然科学的証明を要件とするのであれば、精神医療こそ診療報酬などの医療諸制度に包含できない結論になり、いわき病院は自らの論理で自らの首を絞めます。精神医療は生理学的なデータは殆ど無く、患者の症状と環境変化への対応、投薬による経時変化などを専門医が詳細に観察して、その症状を解明するものです。いわき病院は抗精神病薬、SSRI(パキシル)、抗パーキンソン薬等の突然の中断後に野津純一の病状の悪化を見逃したのです。精神医療に関する過失責任の有無を判断するには「自然科学的」という哲学用語をあてはめるのではなく、近代医学に共通する客観性を維持して基準を逸脱せず禁忌事項を遵守した医療が行われたか否かが問われなければなりません。

  いわき病院の精神科臨床医療は、精神医療の科学性の基本となるべき「綿密な専門医の観察」を怠っておりました。そもそも渡邊医師は抗精神病薬の中断等の処方を変更した後で野津純一の経過観察を主治医本人及び有資格者で行っておらず責任が浮き彫りになります。いわき病院の主張に基づけば、いわき病院内の精神医療と薬事処方は全て自然科学的に確実な結果が証明されたものでなければなりません。しかし渡邊医師自らは、自然科学的に証明されず、また統合失調症ガイドラインからも逸脱した治療と処方を行いました。いわき病院の「精神医療の指針は科学的に厳密ではないので治療した医師には過失責任は存在しない」という論理は、自らの不勉強と錯誤と過誤と怠慢を覆い隠す詭弁です。

  いわき病院は自然科学的証明と主張しますが、臨床医療の現場では主治医は医学的な指針が全ての患者に対して一様に適用されないからこそ、患者の症状の変化を綿密に診察する義務があり精神医療では非言語情報等の患者観察は重要です。しかし渡邊医師は「野津純一がイライラを言葉で訴えなかったから野津純一にはイライラは無かった」と主張しました。臨床医療は医療契約に基づく治療行為で理念的な純粋自然科学ではありません。野津純一は精神障害者です。人間の精神は全て科学的に証明されるものではなく、経験則とエビデンスに基づいて、その時代の精神医療の水準に則って、錯誤と怠慢の無い医療を実践することが、治療者の義務です。臨床では患者の個体差と治療効果の確認が重要で、処方を変更した後では詳細かつ頻繁に診察する義務が主治医にあります。ところが渡邊医師は野津純一に対する抗精神病薬の中断等の重大な処方変更をした後の2週間で、カルテに記録が残る診察は一回しかしておらず、怠慢がありました。いわき病院は「自然科学的証明」という言葉で、処方変更の錯誤と診察拒否を隠すものです。


ウ 「(科学的に裏付けられた因果関係の認定)」に関して

  いわき病院は「患者側もインターネット等を通じて容易に医学情報を入手することが可能であり」と記述しましたが、渡邊医師は素人である原告矢野が書物等で容易に勉強できる基本レベルの精神医療で「知識不足と錯誤があった」という自白です。

  医師資格は長期の高度な医学教育を履修した上に国家試験で認定され、被害者や患者は普及書や専門家等の助言等では習得できません。本件におけるいわき病院の主張は、渡邊医師の不勉強と医療知識の不足を露わにしました。いわき病院の主張を論理的に解析すれば、精神保健指定医の渡邊医師は「素人でも指摘できる精神医学の基本的なレベルの過失を行った」という事実を認めた主張です。現在の臨床精神医療の水準にも劣る医療をしておきながら、その原因を被害者や患者が解明することは許さないという身勝手な論理です。これでは医療を改善するインセンティブが失われ退廃します。


エ 「(自然科学的ないし医学的な見地からの確実な証明の上で、因果関係の有無について判断されるべき)」に関して

  渡邊医師が主治医として患者に対して行った医療行為が「現代科学と医学の限界の外にあるからやむを得ない」として無過失責任論を主張することは、極めて無責任な論理です。臨床医療では自然科学的ないし医学的な見地から確実な証明が無い場合でも、エビデンスと経験則の蓄積で医療効果が確認されている医療技術および治療指針は存在し、それに基づいた医療行為は社会的に容認されます。社会が推薦する医療行為を行わず禁忌事項を守らない医療行為には過失責任が発生します。現在の医療水準から著しく逸脱した臨床医療を実践し事故が発生した場合には、必然的に過失責任が問われます。


(2) 「因果関係に関する最高裁判決の動向」に関して

いわき病院は本項および第3章の「下級審の判例」で、判例を的確・適確かつ正確に要約して紹介せず、更には重要な事実に言及しない箇所が散見されます。いわき病院は既判例で法的過失に至るまでの因果関係が否定された事例を持ち出して、強引に「医学的に錯誤と過誤はあっても、法的に過失責任を認定するほどではない」と主張しただけであり、「いわき病院事件」の参考とはならない事例です。


ア 「訴訟上の因果関係の立証について最高裁判決のいう原則論」に関して

  いわき病院の主張は、前後で調整されない、その場限りの責任逃れです。「第(1)のイ」で「科学的確実性をもって因果関係が証明されない場合には、基本的に不法行為は成立しない」という論理を展開しましたが、本項では最高裁の判断論理である「経験則に照らして全証拠を総合的に検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とする」を引用しました。いわき病院は自らが否定した「科学的確実性に裏付けられない経験則の論理」を反論で使用しており矛盾します。


イ 「具体的因果関係の存否」に関して
(ア)「平成11年2月25日最判の差戻審(福岡高裁平成11年(ネ)第215号、平成13年(ネ)第920号損害賠償請求控訴、同付帯控訴事件)」に関して

  本件では判決文にある「たとえ診察していても延命は期待できなかった」という文面から「患者は末期の肝臓癌で、専門医である被告医師の病院に入院しており、既に『死期が迫っている状況』で診察拒否の後に死亡」のようです。末期の肝臓癌患者であれば、主治医が診ても診なくても死期は間近に迫っていたといえます。

  渡邊医師は事件直前に野津純一に対して、統合失調症ガイドラインに逸脱した処方変更をした上に診察拒否をしました。処方変更後に主治医は注意深く診察する義務があり、診察さえしておれば事件が起きないフェイルセーフが働いた可能性は十中八九です。本件と「いわき病院事件」は状況が全く異なり、いわき病院の主張の裏付けにはなりません。


(イ)「最判平成12年9月22日(民集54巻7号2574頁)」に関して

  本件は救急医療における救命可能性の問題です。深夜早朝に初診という救急医療の現場では担当医師が患者の病状に則した専門医であるとは限らない上に、患者の医療データも限られた中で、しかも患者からの自己申告情報も不足した上で、文中記述によれば15分以内に緊急処置を行う必要がありました。救急現場では分単位で病状が変わり診断も困難ですが、完全な医療態勢ではないとしても、完全性が整うまで放置すれば死亡する可能性が高い緊急事態にある患者を少しでも多く救命することが目的です。

  これに対して長期入院患者の場合には既に診断は確定しており、主治医は病状に対応した高度な専門医であり、その上で詳細な病歴や病状のデータを駆使して治療を行います。救急医療における救命可能性の「高度の蓋然性」はいわき病院精神医療の参考にはなりません。精神科専門病院の長期入院患者であった野津純一に対する通常の精神医療の中の殺人率に、救急医療の救命率を参考数値とすることは暴論です。


(ウ)「最判平成14年2月28日(事件番号平成13年(受)241号)」に関して

  本件の患者は高齢(75歳)で、肺結核、肺気腫、無気肺で肺の残存機能はゼロに近く基礎に慢性の呼吸不全が存在し体力もなく当該過失が無くても病状が重篤化した可能性ありとされ、いつ死んでもおかしくない状況でした。本来医師の責任にすること自体が誤りであるべき患者の治療と死亡の関係を論じたものです。本件では医師の診察放棄もなく、治療しておれば生きていたと証明することは通常の認識としても困難な事例です。

  この事例は事件当時36才の野津純一に対する臨床精神医療の参考事例とすることはできません。野津純一の場合は、20年以上継続した慢性統合失調症患者であり、抗精神病薬を継続した上で副作用の改善を図る基本的な治療指針を守っていれば「いわき病院事件」は間違いなく防げました。それができなくても、渡邊医師が処方変更後の効果判定を綿密に行い、病状悪化を観察と診断しておれば事件は十中八九の高い確率で防げました。


(エ)「最判平成15年7月18日・第二小法廷(平成10年(オ)1158号)」に関して

  本件は「職場検診で肺癌が発見できるか」という問題ですが、患者は当時33才で通常ではガンで死ぬ年代ではなく、全ての原因を職場健診にすることはできないと考えることが妥当です。患者が若く進行性の悪性癌では病巣が見つかった時には既に手遅れというケースは良くあることで、「職場集団検診で見つけていたとしても余命に差は無かっただろう」という医師の証言には重いものがあります。渡邊医師は野津純一の主治医であり、精神保健指定医という「高度な専門家」で、医療行為の責任は集団検診担当医と比較すれば重大です。また本件で鑑定された生存率を持って通り魔殺人事件が発生する蓋然性の論議に敷衍することは論理の飛躍です。


(オ)「最判平成11年10月12日第三小法廷判決(判例時報1695号129頁)」に関して

  本件は医療行為の過誤を問うものではなく、肺癌の発症は粉塵が多い労働環境か本人の長年の喫煙かという問題を問うものであり、参考事例とすることはできません。


ウ 「相当程度の可能性すら認定しなかった判決例(最一判平成17年12月8日判時1923号26頁)」に関して

  本件は、東京拘置所に勾留中の被疑者である患者を拘置所職員の医師が日曜の早朝に誠意を尽くした診察と通常手順に従った治療を継続していたが、専門医転送が翌日の月曜日になった責任を問われたものです。文中で「発症発見後速やかに転送されていたとしても後遺症の程度が軽減されたとは認められない」と述べているので、発症時には既に回復不能で「治らない」状態でした。

  「いわき病院事件」では主治医は「精神保健指定医」です。重大な処方変更後に効果判定を主治医自ら行い、病状が悪化した患者からの診察要請に応えておれば事件は十中八九防げました。本件との本質的な相異は「医師が義務を果たしたか否か」と「専門医への転送の時期」の問題であり、野津純一の場合は転送の必要はありませんでした。主治医が診察義務を果たしていない「いわき病院事件」に、本件は免責の参考事例となりません。


3 「下級審の裁判例」に関して

(1)「前橋地判平成16年8月27日(判例集未登載)」に関して

本件ではくも膜下出血で入院したこと自体が現代の医療技術では「治療が難しい致死率が高い疾患」の部類です。野津純一の場合は、治療の基本は抗精神病薬の継続投与であり、治療が難しい疾患ではなく、同列に論じるのは誤りです。「いわき病院事件」では抗精神病薬等の突然中止をしなければ事件が起きなかった高度の蓋然性があります。


(2)「名古屋地判平成18年1月26日(判例集未登載)」に関して

本事例は誤投薬と患者死亡の関係を問うもので、最初の退院時の誤投薬は明らかですが、その後入退院を繰り返していた間も誤投薬が続いていたとは通常考えられず(これは文中で言及されてない)、患者は退院して会社勤めをしたようです。従って2度目の退院後と3度目の入院時の転倒が本当に最初の退院時の誤投薬の影響か否か不明です。何故なら患者は74歳と高齢で病気が無くても転倒することはよくあり、ましてや高齢者が3度の入院生活をすれば足腰が弱り転倒の可能性は高まります。文末に記載された「高度の蓋然性を認めることは困難」という記述を持って、「いわき病院事件」でいわき病院が野津純一に対して行った過失の認定を否定する論理は唐突であり必然性と蓋然性がありません。


(3)「東京地判平成17年7月25日(判例集未登載)」に関して

文中記載の薬用量から本件の患者は乳児(1才未満)で喘息発作(患者年齢と病名は文中に記載なし)があり前日から投与のドライシロップは効果が十分ではなく類似成分の点滴を使用した後、重大副作用が出た責任を問題にしたようです。状況から喘息は重症で内服薬では十分ではなく、命の危険もあった可能性が推察されます。また点滴終了後の薬剤血中濃度は中毒域未満で、主治医は重大な副作用発現後の処置を直ちに行っています。患者は乳児で重症であり治療は難しかったのです。

36才の大人で抗精神病薬を20年も服用し続けてきた野津純一の場合は状況が異なります。「いわき病院事件」は、投薬基準を無視した大きな処方変更後、本人が調子悪いと訴え、看護師も認めて診察要請したのを主治医が却下した後の事件発生で次元が違います。


4 「結論」に関して

いわき病院は(1)の「統合失調症を的確に診断できなかった過失」から(9)の「本件犯行時野津に単独外出許可した過失」まで各項目を個別に議論して、そのどれにも殺人事件を引き起こすまでの高度の蓋然性は無いと主張しましたが、正にいわき病院の無責任な医療態度を証明する謬論です。

「いわき病院事件」の本質は長期入院患者、野津純一の人権を尊重しない精神医療です。いわき病院が自ら抗精神病薬の中断等の処方変更で誘発した野津純一の病状悪化に気づかず、その上で個々の過失が相互に連関して相乗効果で野津純一の殺人行動に至る蓋然性が高度に拡大した過失です。その重大な背景として、いわき病院が意図的に欠落させていた重大な錯誤と怠慢である「アカシジアの診断と治療を間違えた過失」と「根性焼きを発見できなかった過失」があります。そして「主治医が看護師から伝えられた野津純一の診察要請を拒否した事実」を無視しており、「高度の蓋然性はない」とする論理は成り立ちません。いわき病院は入院医療契約の債務不履行を行っておりました。刑事裁判で野津純一代理人は「病院の治療がきちんとしていたら事件は起きなかった」と主張し、野津純一自身も平成22年1月25日の人証で同様の発言をしました。いわき病院には過失責任があります。


II、総括的反論

1、いわき病院の論理破綻

(1)、事実の改変と審議の引き延ばし

いわき病院は、基本的事実を裏付ける公式記録であるカルテの記載日と処方変更に関する記録内容を変更し、渡邊医師が薬剤管理記録に書き入れたコメントとサインを削除しました。その上にいわき病院側鑑定医選任他で以下の通り徒に時間を浪費しています。

ア、 いわき病院が指定する鑑定者選任と鑑定書作成に関する時間の引き延ばし
イ、 非現実的な無理難題論と意味のない議論の繰り返し
ウ、 法廷に提出したカルテや病院スタッフ記録等の証拠資料の改竄と隠匿
エ、 歯科カルテの出し渋り
オ、 根性焼きやアカシジアなどの事件事実の否定と診察拒否の否認
カ、 平成18年に答弁書で主張して以来同じ主張を繰り返す堂々巡りの議論
キ、 既判例など、関連性がほど遠い事例を持ち出した無意味な議論の導入
ク、 既判例を歪曲して要約した、同じことの異なる表現と意図的な複雑化および論理の飛躍など、混乱の誘導を意図し、事実認定の確定を困難にして責任を回避する行動
ケ、 十中八九殺人する蓋然性が無ければ外出許可に責任は無いとする非人道的な主張


(2)、証明されているいわき病院の過失

いわき病院は「原告は過失を証明してない」と主張しますが、原告矢野は、いわき病院が「はじめに」で原告の主張として列記した(1)から(9)まで、および原告が指摘した(10)と(11)に関しては、概要は以下の通りで、これまでの原告矢野の文書でいわき病院の錯誤や過誤を証明しました。いわき病院および渡邊医師の処方変更後の野津純一の病状悪化を見逃して殺人事件の発生を防ぐことができなかった数々の過失は確定的です。

A、基本的な過失
ア、 いわき病院と渡邊医師は医師法に違反した医療行為を行った
イ、 いわき病院と渡邊医師は精神保健福祉法に違反した精神医療を行った
ウ、 いわき病院はレセプト不正請求などの反社会的行為を行った
エ、 野津純一に対して入院医療契約の債務不履行を行った

B、医療上の過失
ア、 真剣に患者に向き合わず、患者を診察せず治療を行わない背信行為があった
イ、 結果予見性と結果回避可能性を無視して患者の保護を行わない精神医療を行った
ウ、 入院患者の毎日の病状の変化に対応した精神科臨床医療を怠った
エ、 自らの独自の診断理論により「反社会的人格障害の診断名を付けなければ患者に反社会的行為は無い」とする、患者の行動履歴を無視した精神医療行為を行った
オ、 処方変更後に、主治医の診察は1回だけで、12月には診察した記録が存在しない等、肝腎な時点で診察怠慢があり、野津純一の病状悪化の症状を見逃した
カ、 病院長の渡邊医師は処方変更を職員に周知せずチーム医療を機能させなかった
キ、 処方変更直後に「異常発生時の包括的指示を出していたので過失責任は無い」という無効な主張を行った
ク、 「金銭トレーニング等の職員の報告から問題なしと判定した」と証言したが、カルテにその記録が存在しない等、有資格者による処方変更の効果判定を行わなかった

C、治療上の過失
ア、 抗精神病薬の維持量を無視し、頓服投薬を長期慢性統合失調症の患者に行った
イ、 野津純一の病状の悪化を放置して、抗精神病薬の投与を再開する時期を逃した
ウ、 野津純一はアカシジアで酷く苦しんでいたが、主治医の渡邊はCPK値が低い、またドプスが無効であることを以て「心気的」と誤診し、更には治療に失敗した
エ、 抗不安薬のベンゾジアゼピン系薬剤の最大承認用量を無視した連続大量投与したが症状の変化を診察することに無関心だった
オ、 野津純一は顔面に根性焼きを自傷していたがいわき病院は発見しなかった
カ、 パキシル(SSRI)の突然中断 (追加的指摘)
これまで指摘しなかったが、パキシル(SSRI、抗うつ薬)は突然の中断で問題が生じる可能性大で、渡邊医師の処方変更に関連する過失性は極めて高くなります。パキシルの突然の中断は錯乱、興奮、振戦、頭痛、嘔吐等を惹起し、パキシルが関与する問題行動は大変多く、パキシルを中止や変薬する時には漸減が必須でした。

D、看護・患者管理上の過失
ア、 野津純一はエレベータの暗証番号を教えられており勝手に外出できる状態だった
イ、 渡邊医師は看護師等からの「異常」に関する助言をしかりつけて聞かなかった
ウ、 主治医は事件直前に担当看護師が伝えた野津純一の診察要請を拒否した
エ、 主治医の診察は患者が眠薬を投与された後で、正確な状況を把握できなかった
オ、 患者の野津純一が根性焼きの自傷行為を行い、診察拒否されて失望と怒りおよびイライラが一層酷くなっていたのに外出制限をせず、単独外出を許した


(3)、いわき病院が新たに法廷に提出した証拠の問題点

いわき病院が今回法廷に提出した証拠で、特に問題となる箇所は、以下の通りでした。

ア、 いわき病院が提出した「薬剤管理指導の内容」には、平成16年12月10日の主治医コメント「タスモリンは処方ミスでした」および平成17年10月26日の渡邊医師コメント「Sc(統合失調症)ですか、強迫観念が強い患者です、通常の人の受け止めではなく、本人の気になった所見・作用のみ認識されます。一考下さい」の記述が削除されており、改竄がありました。特に、削除された渡邊医師コメントは抗精神病薬を中断した根拠に関連しており、重要事実の隠蔽です。
イ、 上記では、医師サインが削除され、薬剤師の押印の方向が異なっておりました。特に医師サインの削除は、渡邊医師に責任回避の意図があったことを示します。
ウ、 薬剤師の記録は平成17年11月2日が最終であることが確認されました。なお、この11月2日の記録は過去に提出された証拠には無く、野津純一の「ドプスが効かない」という発言があるため、隠蔽されていた可能性があります。
エ、 いわき病院準備書面の「2、因果関係に関する法的主張」の「(2) 因果関係に関する最高裁判決の動向」および「3 下級審の裁判例」は、全て「診断が難しい」、「治療が難しい」もしくは「専門医でない」のいずれかに相当していました。野津純一の場合は、精神科専門病院で精神保健指定医が主治医でした。既に診断が確定していて、治療はガイドラインに従えば問題がなかったのであり、例示された判例は「いわき病院事件」裁判の参考事例にはならないものばかりです。

(4)、医師法違反

いわき病院は医師法第1条(医師の職分)、第17条(非医師の医業禁止)、第19条(診察義務等)、第20条(無診察治療等の禁止)、及び第24条(診療録等)の違反を行いました。


(5)、精神保健福祉法違反

精神保健福祉法第37条第1項では任意入院患者で自傷行為を行うおそれがある患者に対して「措置入院」に至らないまでも「一時的な外出制限」の規定があり、法律に従う対応をすれば外出許可中の殺人事件の発生はありませんでした。いわき病院の法的過失責任の根拠は精神保健福祉法に違反した医療活動です。


(6)、反社会行為

いわき病院は野津純一に係わる歯科のレセプト請求と野津純一の障害年金の申請で不正記述したと自ら主張しました。また、野津純一のOTとSSTを同じ日の同じ時刻に行った記録があり、レセプトを二重請求して診療報酬の不正受給をしました。


2、殺人を容認する「高度の蓋然性」

(1)、「高度の蓋然性」とは「十中八九殺人」する確率

いわき病院は、「統合失調症患者に抗精神病薬(プロピタン)を中止した過失」について、『抗精神病薬中止によって80〜90%の確率で(つまり10人中8ないし9人の患者が)本件のような殺人行為に至るという客観的かつ科学的根拠が存在しない以上、これを本件犯行と「高度の蓋然性」をもって結びつけることは到底不可能である』と主張しました。いわき病院が主張した高度の蓋然性とは、外出許可により外出する入院患者の十中八九が殺人する確率です。これには「殺人未遂や傷害などの他害行為は外数」です。そもそもいわき病院の主張は根幹から反社会的で許されない非常識な論理です。


(2)、殺人事件と凶悪事件を容認する論理

いわき病院は「80%以上の許可外出者が殺人する高度の蓋然性を証明しろ」と原告に要求しましたが「外出許可者の全員ではないとしても、何人かが実際に殺人する可能性を承知して複数の入院患者に外出許可を与えていた」論理です。いわき病院は外出許可を与えた患者の十中八九の者が殺人する高度の蓋然性が無ければ法的過失責任は無いと主張しました。統計的に殺人者が50%でも更に10%の確率でも、社会の許容限度を超える「連続殺人事件」が発生します。また仮に1%の外出許可者が殺人すれば、その背景には数倍の殺人未遂と桁違いに大量の傷害事件が発生し、社会は震撼します。いわき病院の精神医療の下では、いずれ入院患者の誰かが許可外出中に殺人することは必然であり、矢野真木人が殺人されたことは予想可能な結果の一つです。


(3)、社会責任からの逸脱

精神障害者が実際に殺人行動を取ることは極めて希です。それは健常者の中で殺人者となる事例が極めて希であることと同じです。殺人は社会が許してはならない犯罪です。それを「統計的に80〜90%が殺人する確率で無ければ責任は無い」と主張したところに、公的経費助成が許される精神科医療機関の論理に「人命を尊重せず犯罪を許す逸脱」があります。そもそも、自らの論理の「非常識」が見えておりません。いわき病院は「安全で健全な社会の発展に貢献する病院の義務」から逸脱しています。


(4)、10人中7人までの自傷他害に無関心

仮にいわき病院の主張は「外出許可者の10人中7人以下の自傷他害事件にまでは病院に責任は無い」という意味だとします。全員が自傷他害行為に走ることはありません。10人中7人という数字は「為すがままに任せても、本来的に現実性が無いほど高い頻度の事故率」で、いわき病院の精神医療では「いかなる自傷行為も他害行為も関心の対象外で、外出許可の要件にならない」という意味です。自傷行為とは患者自らの自殺、自殺未遂および根性焼きや傷つけやリストカット等の行為です。他害行為とは病院内における他患や職員に対する行為および病院外または帰宅中における行為で、殺人、殺人未遂、傷害等です。いわき病院は「外出許可を出す患者に自傷他害の可能性を考慮しない」と主張しているに等しいことです。精神科医療では患者の自殺は重大な問題です。野津純一は病院内で根性焼きの自傷行為を繰り返しておりましたが、主治医の渡邊医師は診察怠慢で顔面左頬の火傷傷を発見しませんでした。いわき病院が患者の自傷他害行為に無関心でいることは許されません。


3、精神障害者の精神医療

(1)、精神医療の健全な発展を期待する訴訟

原告矢野が「いわき病院事件」裁判を提起したそもそもの理由は、精神医療の健全な発展が目的です。私たちはこの裁判を通して日本で「精神障害者に正しい治療を施し、社会復帰を促進する精神科臨床医療が普く実現すること」が希望です。


(2)、無責任医療の是正

いわき病院は「いわき病院に過失責任が課せられるようでは、日本で精神医療は行えなくなる、精神科医師になる医師がいなくなり、公益性が失われる」と主張しました。しかし、いわき病院の精神科臨床医療には入院患者の病状悪化を見逃して適切な治療対応を行うに至らなかった以下の実態がありました。いわき病院が主張する大義名分以前の、基本的な医療を実現していなかった無責任医療に過失責任が問われます。

ア、 入院患者の精神症状を正しく診察しない医療
イ、 間違いが多く、正しい施薬基準を守らない薬事処方
ウ、 重大な処方変更をしても患者にインフォームドコンセントを行わない医療
エ、 重大な処方変更をしてもスタッフに周知しないチーム医療無視
オ、 処方変更後にきめ細かな診察をせず効果判定を有資格者が行わない無責任
カ、 入院患者が異常を訴え、看護師が認めて診察要請をしても診察拒否をした不法医療
キ、 入院患者がアカシジアの症状で苦しんでいる状態から異常を察知しない医療
ク、 入院患者が顔面にタバコで火傷の自傷をしても発見しない怠慢を許す医療と看護
ケ、 患者の症状の変化に対応して、処方を見直さなない医療
コ、 自傷行為をしている入院患者の外出許可を見直さず、漫然と外出させる外出管理
サ、 精神科入院患者の人権をかえりみない患者に対する背信の精神科医療

いわき病院が行った、精神障害の有無に係わらず市民の命を尊重せず、殺人や傷害を社会に垂れ流す精神科臨床医療では患者の治療は促進されません。精神障害者の自立促進が実現するどころか、社会的反感の渦を呼び起こすことになるでしょう。人間の命は最も大切です。いわき病院の無責任医療こそ是正されなければなりません。いわき病院に過失責任を認定することは、いわき病院が主張した「日本の精神医療の荒廃を促進すること」ではありません。いわき病院は既に無責任で荒廃した精神科臨床医療を行っておりました。大切なことは「いわき病院事件」の審議の結果として、精神科臨床医療の改善と改革を促進し、合わせて、精神障害者の人権を確立する第一歩を踏み出すことです。


(3)、精神障害者の社会参加拡大

私たちは多くの精神障害者が寛解し更には精神病状が治癒して、社会復帰と社会参加が拡大する精神医療の実現を希望します。精神障害者の人格が尊重されて法律的にも社会的にも自立した立場が確立されなければなりません。精神障害があると診断されただけで、精神科病棟の中で残る人生を無為に過ごすことを余儀なくされ、人間として救われない状況は過去の悲劇でなければなりません。これは、精神障害者の法的責任能力の保全と拡大の問題です。インフォームドコンセントに基づいて、精神障害の治療を行い、責任ある社会人として社会に参加する道が開かれなければなりません。


4、医療過失といわき病院の論理

(1)、自己矛盾の混乱

いわき病院の主張は統一性が保たれておりません。「過失責任を負わされるほどの高度の蓋然性は無い」という論理ですが、その一方で自らの訴訟戦略を「過失責任の有無の争い」から、「裁判で医療過失が無いと認定されることは無理」と自覚して 「過失割合の争いに転じてきた」とも推理できます。


(2)、引用した過去の判例は医療過失を前提としている

いわき病院が具体的事例として引用した判例を「裁判で医療過誤が認定されたか否か」の観点で整理すれば以下の通りで、5)と6)を除く判例で被告病院及び医師の医療行為に過失や義務違反が認定されており、「過失性がない医療」を証明した事例ではありません。

1) 平成11年2月25日最判の差戻審
   ○診療義務違反を認定
2) 最判平成12年9月22日
○医療水準の大きな逸脱と、注意義務違反の存在を認定
3) 最判平成14年2月28日
○抗生剤中止による医師の過失性を認定
4) 最判平成15年7月18日・第二小法廷
○一般医でも発見可能な異常影を見落とし、精密検査を指示しなかったことを過失と判断
5) 最判平成11年10月12日第三小法廷判決
(自己の喫煙と労働災害の問題であり、参考判例でない事例)
6) 最一判平成17年12月8日
○拘置所の限られた設備で日曜朝一般医が専門病院に転送させるのが遅かったのは不適切不十分な措置と上告人が主張していた
7) 前橋地判平成16年8月27日
○コーティング手術をした際の動脈損傷を生じさせた過失を認定
8) 名古屋地判平成18年1月26日
○病院の誤投薬と低血糖昏睡症の原因究明義務違反と付添看護義務違反を認定
9) 東京地判平成17年7月25日
○被告の薬の投与等(方法、投与量を含め)について過失を認定

いわき病院は上記の5)と6)以外は、論理的に「医療過失や義務違反が存在する」ことを前提として「相当因果関係は低く、民事裁判で過失責任を被告側に負わせる程度の高度の蓋然性は存在しない」、そして「過失があっても蓋然性が低いので、いわき病院は法的過失責任を負わない」と主張しています。「確かに医療過誤を行ったが、法的過失責任を問われるほど悪質ではない」といういわき病院の論理であり、「医療過失の存在を前提としている」ことが極めて重要です。いわき病院が証拠提出した論理はそもそも「野津純一に対する精神医療で過失があったこと」が前提でした。


(3)、医療過誤があれば法的過失責任が問われる論理

いわき病院はそもそも「医療訴訟においては、医学的知見・判断と法的判断は基本的に一致することが求められることになる」と主張しております。自らの論理に忠実であれば、いわき病院は「いわき病院事件」で法的過失責任を認めなければなりません。


(4)、「自然科学的論理」に基づく確信的な診察拒否

いわき病院は「自然科学的に証明されない治療には過失責任はない」と主張して、抗精神病薬やSSRI(パキシル)の突然中断という重大な処方変更を行った後で、患者の観察を行わず、合法的な処方変更の効果判定を行わず、診察拒否をしました。そしていわき病院は入院患者野津純一の病状悪化を見逃しました。これは独善的な論理を盾にして「責任を問われない」と確信した、医師法に違反する極めて悪質な不作為です。


(5)、抗精神病薬は継続投与が原則

いわき病院の「殺人の可能性が低ければ、統合失調症患者への抗精神病薬の継続投与を中止しても良い」という主張は誤りです。百歩譲って仮に他害行為の可能性がゼロでも、抗精神病薬の継続投与を突然中止することで患者は幻覚妄想や幻聴に悩まされるだけでなく以前より社会適応が悪くなります。精神医療と精神障害者の社会復帰の目的は精神症状の軽減と精神障害者の社会参加の拡大です。そもそも、抗精神病薬の中断後に、主治医は患者の幻覚妄想や幻聴などの再燃や離脱症状の発生に最大限の注意を払わなければなりません。抗精神病薬中断後の診察拒否は過失です。特に渡邊医師は放火、暴行、飛びかかりの既往歴がある野津純一の病状の変化をきめ細かく観察と診断を行わず、患者が殺人を行うまで放置しており過失責任があります。


(6)、付き添い付きの外出ならば殺人はあり得ない

いわき病院は「原告は付き添い付きの外出に関して何も論じてない」と主張しました。しかし、付き添い付の外出であれば野津純一が包丁を買うこともなく、店外で包丁を取り出すこともなく、包丁を隠し持って被害者を捜す行動をすることもなく、殺人は100%無かったと断言できます。


5、「いわき病院事件」裁判と法治社会

(1)、公正な法治社会の原理

私たち原告矢野は公正な法治社会の確立を期待してこの裁判に臨みます。日本国憲法に則った法秩序という基本線を守り、以下の原則を尊重します。

ア、 心神喪失者の法的無責任能力の法的原理
イ、 日本国憲法で定められた普く全ての人間に保証される基本的人権

日本国の法治原則は「上記ア及びイの、二つの基本的原理を両立して行うこと」であると確信します。心神喪失は心神喪失者等として拡大解釈と運用をすることは問題で、全ての心神喪失で無い者は法的責任能力を有します。また「精神障害者の法的無責任能力を理由にして市民の基本的人権が侵害される実態」を放置してはなりません。精神障害者であれば積極的に心神喪失者として法的無責任能力を適用することは、本人には法的権利の喪失であり、普遍的人権の保障という視点からは疑問無しとしません。


(2)、「いわき病院事件」裁判を通して見えた日本の課題

私たちは矢野真木人が殺人された後で「死んだ後では人権は消滅した、諦めなさい」と言われました。しかし「最大の人権である生存権を奪った行為は許されてはならず、社会は殺人行為に対しては、いかなる背景があろうとも、具体的で有効な対策をとる必然性があり、殺人を放置してはならない」と考えます。基本的人権である生存権は奪ってはなりません。しかしいわき病院は「十中八九の殺人蓋然性が無ければ外出許可に問題は無い」と、精神障害者による殺人を容認した主張を行いました。

日本には「精神障害者であるというだけで、心神喪失が安易に認められており、精神障害者の中に不逮捕特権・法的免責特権を持つと誤解する人間が発生することに対して社会的抑止力が乏しい現実がある」、また「殺人犯人に心神喪失者等が認定されると、殺人被害者は全ての法的請求権を実質的に失ったと同じ状況に置かれ、社会が救済することがない」という実態があり、更には「被害者の生存権という基本的人権が無視される」という課題があります。そして「いわき病院事件」裁判を通して「不幸な事件を教訓にして精神科医療の改善を促進することも困難」という現実が見えてきました。「長期入院患者の野津純一は人権侵害と精神医療過誤の被害者」でした。野津純一に適切な精神医療が行われなかったことは本人および他のいわき病院の入院患者、更には全ての精神障害者にとって不幸です。だからこそ、私たちは野津夫妻に原告となっていただけるようにお願いしました。「いわき病院事件」の法廷議論の結果として、日本の精神医療が改善され、精神障害者の社会復帰と社会参加が促進される道が開かれることが原告矢野の願いです。


(3)、法的無責任能力と不誠実な医療

心神喪失者等が積極的に認定されることの関連で、精神科臨床医療に責任を問うことが極めて困難であるという実態は、いわき病院の不誠実で過失と過誤に富んだ精神医療という現実をもたらしました。統合失調症の診断の混乱及び長年にわたる抗精神病薬投薬の副作用であるアカシジアの診断と治療の間違いは、渡邊医師の精神保健指定医としての不勉強と資質不足を明らかにします。主治医として野津純一にインフォームドコンセントを無視した処方変更は、法的無責任能力に安住して患者の人権を無視する行為です。渡邊医師は処方変更後の効果判定を「金銭管理トレーニング等の無資格者の報告をもとにして行った」と医師法に違反する主張を行いました。渡邊医師の非常識かつ重大な処方変更を察知した薬剤師は「知らなかったことにしよう」と眼をつむり「報告書の記述を放棄した」可能性があります。主治医の渡邊医師は、処方変更をした後の重大な時期に2週間に一回の診察しか行わず、野津純一が診察要請をして、担当看護師が伝えても診察拒否をしました。これらの渡邊医師の患者の病状の悪化を観察せず、患者の要請を顧みない安易で傲慢な医療行動には、精神障害者である患者野津純一の人権無視が背景にあると指摘します。責任を問われないところでは、精神科臨床医療の改善は期待できません。


(4)、殺人の発生を容認した無責任な精神医療

いわき病院が主張した「十中八九の外出許可者が殺人する高度の蓋然性を証明できなければ法的に無責任」という論理は「いわき病院から外出する入院患者の多くに殺人する可能性があった」という意味です。人間の命を尊重せず、治療中の精神障害者を殺人者にする精神医療で、矢野真木人殺人事件を発生させました。

精神科医師から「精神障害者は一定の割合で、他害のおそれがあり、それは健常者を上回ります。これは自明ですから、それを承知の上で健常者と同じ生活をさせようとしているわけです」というコメントがありました。原告矢野は「殺人発生率はゼロでなければならない」と主張しておりません。その上で、「精神科病院と主治医は患者の病状の変化に対応する誠実な医療を行い、可能な限り殺人事件の発生率をゼロに近づける具体的な対策を行う責任が伴う」と指摘します。いわき病院の「十中八九の殺人頻度ではないから責任は無い」という無責任が通用すれば、社会生活の安全は保たれません。精神障害者の社会復帰を促進する前提は、精神障害者の殺人事件から眼を背けることではありません。「人命を擁護して社会に信頼される精神医療を行わず、錯誤と怠慢に満ちていたこと」が重大ないわき病院の過失です。

精神科医が「(その時の精神医学的常識では)自由放任にした場合に、殺人を含め、他人に傷害事件を起こす可能性がある」入院患者に自由行動を許した結果起こった事件に対して、その医師には責任があります。その時、その医師が外出許可を認めた別の入院患者の何人が全く事故を起こさないかは、殺人した入院患者に対する医師の責任問題とは無関係です。精神科入院患者を自由放任した場合の自傷他害行為に及ぶ蓋然性の判断は、精神科医の重要な仕事のひとつです。だからこそ精神科医師資格とは別のより上位の資格として「精神保健指定医」があり、渡邊医師はその資格者です。

いわき病院が「80%以上の蓋然性が無ければ過失責任は無い」と主張したことは「70%以下の比率で殺人が発生する可能性を容認した論理」です。殺人の発生は可能な限り抑制することが当然の社会規範であり、無責任な医療を実現した精神保健指定医と精神科専門医療機関に過失責任が発生することは必然です。


(5)、車社会の教訓

現在の私たちは車を使用して活気ある現代経済社会を享受しております。この車社会には負の側面があり、自動車事故による生命の損失はゼロにはなりません。しかし「10台の車両の内で7台まで」もしくは「10人の運転者の内で7人まで」が人身事故を起こす危険な状況は許されません。交通事故を頻繁に起こす車両は製造者責任とリコールや改修の対象となり、人身事故を起こした運転者は処罰されます。車社会では、自動車事故をゼロにできないからとして、車を全面禁止にはできません。しかし「気をつけても危険率はゼロにならない」として整備不良車両を運行することは犯罪です。車両安全管理と安全運転者教育は車社会の基本的な要件です。また人身事故を発生させた運転者には、仮に運転者側に情状酌量の理由がある場合でも、厳しく過失責任の有無を問うことが社会規範です。

原因者が健常者であれ精神障害者であれ、殺人率がゼロでないとして、全ての市民を外出禁止にすれば社会生活は崩壊します。精神障害者の殺人事件が発生したからとして、精神障害者外出訓練と社会復帰の道を閉ざしてはなりません。患者の病状の変化に対応する責任ある精神医療が確実に行われるならば社会的危険度を低下させることは可能です。精神障害と言うだけで、精神科病棟に閉じ込めた過去の人権侵害を繰り返してはなりません。しかし同時に、精神障害者の社会復帰という大義名分があるので「10人中7人までが殺人を行う範囲であれば外出許可を出す病院には責任は無い」という、市民の命を代償とする論理は許されません。精神医療は精神障害者の寛解と治癒ならびに社会参加を促進する方向性を着実に進めなければなりません。社会は、殺人危険率をゼロにはできないとしても、最大多数の健全な生活と人権の尊重を図る、具体的な対策が求められます。殺人など重大な事件が発生した場合には、全生活を病院に託している入院中の精神障害者に外出許可を出した医師の過失責任の有無は厳しく検定されなければなりません。


6、法的過失責任が促す精神医療の発展

私たちは原告としていわき病院の責任を社会に明らかにして確定する覚悟です。これは「日本の精神医療の改善」、「日本における精神障害者の人権を尊重した精神医療の実現」、そして「健常者と精神障害者に平等に適用される普遍的人権の実現」が課題です。原告矢野は民事裁判を通して、日本の法治社会の課題として、この問題が社会に認知され、改善されることを願います。

いわき病院は医師法に違反した精神科医療を行いました。また入院中の精神障害者に対する外出許可は、精神保健福祉法に基づいて、自傷行為を行っている患者に対しては「措置入院の対象とする」もしくは「一時的外出禁止」で対応することが可能で、またそうするべきでした。渡邊医師は「外出許可者の十中八九以下の者が殺人を行う範囲であれば責任は問われない」という安易な論理で錯誤と過誤と怠慢がある精神医療を実現しておりました。そもそも殺人頻度を判断基準とすることが間違いです。それは殺人を容認し、殺人事件の発生を前提とする論理です。いわき病院に過失責任を確定することが、法治社会の推進と精神保健福祉制度および精神医療の発展の礎です。



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