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いわき病院医療が引き起こした矢野真木人殺人事件
相当因果関係と高度の蓋然性


平成26年5月7日
矢野啓司・矢野千恵
inglecalder@gmail.com


9、いわき病院「精神科開放医療」の過失責任

(2)、措置入院と任意入院及び病院の責任

いわき病院代理人は、いわき病院の弁護論理として「措置入院ではないから、院外の市民の安全までは責任は持てない。」と言い続けるしかないと推察される。しかし、本来の問題は、任意入院や措置入院の違いの議論ではない。『いわき病院と渡邉医師は、当時の一般的な精神科医の水準からは著しくかけ離れた、劣悪な「治療」であった』という事実に過失責任を確定することが、本件裁判の本質的な課題である。


(1)、いわき病院代理人は北陽病院事件上告理由を用いて弁論を開始した

いわき病院は「北陽病院事件は措置入院患者による殺人で、任意入院の本件の参考とはならない」との主張であるが、法廷に提出したいわき病院第1準備書面で行われた主張の大部分は、北陽病院事件上告理由書の記載と同一であった。いわき病院代理人は双方の裁判に関係したが、「北陽病院事件」と「いわき病院事件」の本質に同一性があると同人が認めていた証拠である。既に最高裁で棄却されていた北陽病院の上告理由書を、本件裁判においてはいわき病院主張開始して基本的主張として述べた第1準備書面として提出した事実は重い。


(2)、措置入院と任意入院の違いは、賠償責任義務者の違い

措置入院と任意入院の違いは、精神障害者の入院方式の違いであると同時に、賠償責任義務者の違いであり、過失責任の有無に関する事実認定には関係しない。措置入院の場合は、仮にいわき病院で事件が発生した場合でも、主治医の渡邊朋之医師はみなし公務員の立場にあり、賠償責任の第一義務者は知事となる。しかしながら、任意入院患者に係る過失で事件が発生した場合には、主治医が精神保健指定医であっても、知事は関係せず、当該病院と主治医に過失責任を限定して問うことになる。

他方、法的過失責任を問うことになる問題の本質は、措置入院であれ任意入院であれ、あくまでも病院と主治医が行った精神科医療に過失性が認定できるか否かである。精神科医療の錯誤や怠慢または不作為などの過失を認定する場合、同一内容でも措置入院では過失になるが、任意入院では過失にならないという二重基準はない。任意入院であれば医療の内容に関係せず法的過失責任を問われることがない、と主張することは、法治制度の基本から逸脱した主張である。そもそも、民間精神科病院であれば、過失責任が問われることがないという、前提はあり得ないことである。


(3)、静岡養心荘事件と北陽病院事件の判例

措置入院患者が殺人事件を引き起こした先例である、静岡養心荘事件と北陽病院事件の判例に基づけば、「措置入院は、知事の処分により、自傷他害の恐れのある者を強制的に入院させる制度であり、その治療管理行為が公権力の行使であり、その行使において過失があったので、損害賠償に知事は応じなければならなかった」と理解できる。

両事件とも、単純に措置入院だから知事に過失賠償責任が課されたのではない。双方の病院とも入院医療と患者看護における個別の問題を具体的に検討した上で、病院側の過失に基づく賠償責任が法廷で認定された。精神医療の過失を免責する特例はない。任意入院でも、個別の医療内容を吟味して過失性の判断が行われることは当然である。


(4)、いわき病院のお粗末な精神科医療と看護

いわき病院と渡邉朋之医師の場合は、両事件に関係した県立病院よりも精神科医療と看護の内容がお粗末で、「治療」どころか、患者への加害がなされた医療的事実があり、病院と医師の医療の過失は大きい。いわき病院は、「任意入院だから、責任はない」という立場であり、「(仮に薬剤処方の過失を認めざるを得ないとしても)、純一は任意入院で」あり、院外で殺人を行うことは予想もしなかったし、予想する義務もない、顔の根性焼きには気がつかなかった、専門家が見て無かったのだから根性焼きは無かった」と言い続けることで、過失責任を逃れようとしているが、事実を見ない医療は詭弁である。

事件の本質は、科学的/精神医学的にはいわき病院と北陽病院の間に違いはない。実態としては、野津純一の状況は、任意入院であっても、他害の過去/傾向を持つ患者が主治医の行った誤った薬剤処方のせいで、基礎疾患の悪化と不安や激昂がある状態に至っており、病院として患者に対する注意義務が発生していた。これに対して、いわき病院は「(観察していなかったから)知らなかった、そこまでは分からなかった」と言い続けてきた。そこに、いわき病院と渡邊朋之医師が同時に突然行った複数向精神薬の処方変更後の経過観察を行わなかった不作為の過失が指摘できる。


(5)、精神保健福祉法に基づく精神医療の責任

いわき病院が野津純一氏に対して行った医療の現実から、精神保健福祉法を運用する過程で「病院の責任」を曖昧にする論理が発達した可能性を指摘できる。本件裁判では、精神保健福祉法に基づいて「当時の一般的な水準の精神医学的知識と精神薬理学的常識に基づけば、精神医学的に自傷他害の恐れがある患者であっても、知事が措置入院と認定したか否かの違いで、病院の過失責任は異なる」として、いわき病院は任意入院であれば、現実を見ず結果予見可能性を持たなくても許されると主張した。精神保健福祉法の制度運用の実態で、精神科病院と精神科医師の過失責任に関連して、いわき病院の渡邊朋之医師のような怠慢で勉強しない医師が精神保健指定医になり、病院長になっている現実があり、結果的に法令遵守も注意義務違反も無視されることになり、この状態を放置することは、制度の健全な発展を阻害する可能性がある。

法に基づけば、任意入院と措置入院に関係なく、医療機関は自傷他害の恐れのある精神病患者に対する監護義務を負う。この監護義務には、更に患者自身を保護すべき義務と患者が第三者に加害行為をしないよう監督する監督義務が含まれる。その法的根拠は(民法第709条、715条、国賠法1条)にあり、措置入院に限定せず任意入院でも自傷他害の恐れがある場合には、医療機関の責任は、同じ程度にある(飯塚和之氏、別冊ジュリスト1989年No102、論文)。

精神障害者は、任意入院のままであっても、注意深い(入院医療としては当然の水準の)観察を行い、精神症状の悪化や症状の不安定化を把握できれば、看護に症状観察を強化する指示をだすことや、一時的な外出の制限などの行動制限を行うことは可能である。いわき病院がこの通常の治療手順を踏んで対応しておけば、通り魔殺人という矢野真木人殺人事件の発生は防ぐことができた。


(6)、当時の野津純一氏には任意入院でも特殊な配慮や注意義務が必要

一般的に「任意入院は、措置入院と比較すれば観察密度は低い」とされる。措置入院はほとんどの場合、実際に他害行為を起こして、治療しなければさらに重篤な他害行為に発展する可能性が高いからである。しかしこの時期の野津純一氏は特殊な配慮や注意義務が必要で、措置入院と比較して観察密度が低くても良いわけはない。抗精神病薬の中止とパキシルの突然の中止状態であれば、措置入院患者と同様に、あるいは、安定期の措置入院患者よりも注意が必要だった。この、複数の向精神薬の同時突然中止は主治医の渡邊朋之医師が行ったものであり、主治医には厳重な配慮と注意義務があった。

いわき病院代理人は、本人が関係した北陽病院事件上告理由書では措置入院の「特殊な配慮・注意義務」さえも軽視していた。この措置入院における注意義務さえ軽視する弁護論と同じ骨格で、任意入院の「一般的な配慮・注意義務」をも軽んじた姿勢は批判されるべきである。いわき病院代理人は「任意入院と措置入院の制度の違い」を主張するが、その認識の実態は「措置入院と任意入院の入院医療の本質」に理解が至らず、精神科医療と看護を軽視する論理である。いわき病院代理人の主張の背景にある患者に対する治療責任を軽視する退廃の論理があることを理解する必要がある。


(7)、「大義名分は我にあり」と主張して誤謬を誘導する論法

いわき病院代理人の論法は「大義名分は我にあり」と主張して、現実の精神科医療現場では、統合失調症治療ガイドラインを無視し、基本的な精神医療から逸脱した医療の実態を覆い隠してきた。渡邊朋之医師は普通の医師では想像もできない、薬剤添付文書の記載事項をよく読まず、読んでも間違って理解して処方した、お粗末な医師である。いわき病院代理人は、精神科開放医療は日本の国際公約であり「いわき病院を提訴したことは精神科開放医療に反対する行為」と主張したが、それは、いわき病院の不作為と錯誤の事実から目を逸らす戦術である。いわき病院代理人は「ポリスパワーの強制ではなくパレンスパトリエの人道医療」と主張したが、いわき病院の渡邊朋之医師が野津純一氏に行った精神科医療は不作為とほったらかしの実態であった。いわき病院代理人の弁論論理の基本は、事実に関係しない誤謬の判断を誘導する行為である。

いわき病院代理人は「任意入院と措置入院」は精神科病院の過失責任の判定では基本的な違いであると主張する。しかし、制度運用の違いは、実際に行われた医療内容の過失性を判断する基準とはならない。あくまでも、法的判断は、野津純一氏が経験した渡邊朋之医師の精神科臨床医療の事実に基づかなければならない。渡邊朋之医師が慢性統合失調症患者の野津純一氏に対して行った、期限を定めない抗精神病薬の中止、当時から危険性の亢進が指摘されていたパキシルの突然中止、及び、処方変更後に問診をせず経過観察を行わない医療は「一般的な配慮・注意義務」の欠如であって、この様な医療に大義名分はない。これは、基本的な医療の怠慢である。


(8)、本件裁判の意義は大きい

いわき病院事件の前例となる既判例(静岡養心荘事件、北陽病院事件)は、「知事による措置入院患者」であった。任意入院患者に対する精神科病院医療に過失責任の可否を問う裁判は初めてである。いわき病院事件裁判は、わが国社会における人権と精神医療の普遍性の実現に関係しており、精神科病院の経営者や精神医学に関わる人たち、及び市民の安全に関心を持つ人達に大きな影響を及ぼすことになると期待する。



   
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