WEB連載

出版物の案内

会社案内

精神科医療と第三者殺人責任


平成27年3月16日
矢野啓司・矢野千恵
inglecalder@gmail.com


3、精神医療の改革と法治社会


(1)、NM鑑定人の疑問

NM鑑定人からいただいたメールを記載する。

精神医療における無過失補償について、何人かの先生に聞いてみました。無過失補償そのものが医療の中でも試験的な段階にあり、精神科医療の領域では正面から議論がなされている様子はないようです。狭義の医療事故では、医療行為に対して被医療者(患者)が受けた損害を補償する構造となっており、被医療者以外と関係ない第三者への被害は医療事故に概念には含まれていないようです。

精神医療は社会的性質を強く持っているため、行為責任は直接的な医療行為を超え管理責任に及ぶため、一般的な「医療責任」の枠組みでは議論され難いのでしょう。精神科に通院したり、入院している患者さんが起こした違法行為が疾患と関係なければ、単に犯罪として処罰対象になるのですが、実際にはその関連を否定も肯定もできないグレーゾーンの出来事がたくさんあります。

アルコール依存症で通院中の人が、飲酒して死亡事故を起こした場合に医療責任はあるのか?もっと極端になると、薬物依存で治療中の人が薬物使用で捕まった(他害行為に及んだ)時に、家族から「きっちり治療していないから事件が起きた」と責められることがあります。医療観察法の存在も「責任」の問題をあいまいにしています。

日本で、本格的に無過失医療事故補償制度が導入された契機に大野病院事件があります。医療事故ではあるが過失とは言い難い医療行為を遺族が警察に告訴して、警察が起訴してしまったある種の冤罪事件です。(事件の詳細な報告が出ていますが、門外漢からみても医療行為として妥当だと思います)

精神医療の行為が刑事事件化すれば、新たな補償制度の議論が生じる可能性があります。ただし、その条件としては「責任ない医師が責任を問われないため」の大義名分がなければ医師会も精神病院協会も動くことはないでしょう。警察もいくつかの医療事件で、マスメディアの動きに沿って逮捕・起訴に踏み込み、最近は有罪にならないことが増え、起訴には慎重になってきています。司法が保安処分的な受け皿として必要としている精神科病院を敢えて敵に回すことはよほどの世論の動きがなければ難しいのではないでしょうか。

人権、法律、医療政策、金銭、司法、社会不安、などと深くかかわる問題であり、まだ頭の整理がついていません。大きな課題であることは間違いなく、複数の専門的による多角的な議論をしないと見えてこない大きさがあると思います。

精神科医療というのは外部から見えない部分に満ちています。さらにエビデンスを踏まえない危険な経験主義が残存しています。このブラックボックスであることが司法にも行政にも医療者にも都合よく働いていることは否めません。私見ですが、精神科医療に関連する重大な事件が生じた場合は、航空機事故の事故調査委員会のように第三者による事故検証員会が設置されるべきだと考えています。現在の行政監査は、いじめ問題の学校や教育員会の調査のようなものでしかありません。責任の所在を明確にするとともに、再発防止の勧告を行う機関が必要です。

本件では、その役割の一翼を担うべき精神病院協会の顧問弁護士が詭弁に終始し、責任回避のみに奔走しており、身内の調査では何も生れそうにありません。外部の検証こそが、今の精神医療には必要だと思います。

控訴人は、本件訴訟とは全く別の問題として、「精神障害者による第三者殺人の被害者には人命損失が発生した事に伴う『損害賠償を行う制度』が社会の仕組みとして整えられて良い」と考える。そのことは医療側に過失責任が確定できるか否かの問題とは別の問題である。日本では、精神障害があれば、心神喪失者等として幅広く心神喪失が認定される。殺人犯が心神喪失者として罪に問われないとしても、殺人された被害者に対する賠償を社会が全く無視して好いものではない。「心神喪失者は無罪」の原則は法治社会の約束事であり、社会としては「心神喪失者に命を奪われた被害者」に対する救済を考えて良い。被害者を救済しないことは社会として片手落ちと思われる。

本件訴訟は被害者救済とは別問題である。矢野真木人を殺人した野津純一氏を治療していたいわき病院と同病院長で主治医の渡邊朋之医師には、精神医療知識の錯誤、薬剤添付文書の不勉強、看護師の顔面を正視しない看護という怠慢、主治医が必要とされる患者観察と診察を行わない診療拒否、そしてこれらを総合した医療放棄があった。その過失責任を法的に確定して、医療者が義務を果たす事が課題である。

控訴人はいわき病院に医療放棄の過失責任を問うことは、精神障害者の社会参加の拡大という日本の社会目標に沿うことになると確信する。いわき病院長が野津純一氏に対して行った、医療知識の不足に基づく錯誤した医療や、薬剤添付文書に違反した治療、更に患者無視は許されない。そのような状況を放置すれば、日本の精神科医療は荒廃する。控訴人は、精神医療を改善する要石になると確信して、本件裁判を提訴した。


(2)、いわき病院という教訓


NM先生

無過失保証のご意見ありがとうございます。「『責任ない医師が責任を問われないため』の大義名分がなければ医師会も精神病院協会も動くことはない」は当然の論理です。私も、「何でもかでも、通院患者や入院患者が殺人すれば、全ては病院の責任と単純化して、責任を追及する論理は間違い」と考えます。基本的に医療側が最低限の医療義務を果たしておれば、安易に過失責任を問わないことが原則であり、医療サービスが維持されることが公序良俗を守ることになります。

本件裁判は社会の仕組みの問題として、今日の平等化した情報化社会で国民の信頼を獲得することができる精神科医療が日本で実現しているか否かという視点で見直す必要があるという、精神科臨床医療に再考を促す指摘でもあります。不幸にして精神科医療を受けている精神障害者による第三者殺人事件が発生した後では、少なくとも、精神科医療側に必要最小限の医療を行っていたという「証明=医療記録の提示」と「中立機関による調査」が必要です。基本的には、「医療は性善説で運営されることが適切であり、医療側の善意を信じて、むやみに問題にする事は不適切」という原則は必要です。日本が訴訟社会化して、医療提供者をことさらに萎縮させるのは間違いです。同時に、医療は国民の健康と健全な精神に貢献することが求められる公費負担で維持される社会活動です。この側面では、第三者殺人など重大な事件に関連した全ての情報の透明性が求められ、不幸な事件が発生した場合には「説明責任を果たすこと」が社会に対する医療側の義務とすることが期待されます。

現状では、精神障害者が原因者となった第三者の殺人事件では、殺人事件を発生させた精神障害者が「心神喪失者等」の「等」の部分で「心神喪失者」として安易に認定されているのではないでしょうか。心神喪失者等として刑法の対象とならず、法的処分が行われる場合には、殺人事件の被害者側が、詳細で具体的な情報を知ることができません。情報を知らせない、また情報を解説しない制度運営は間違いです。基本は、情報の開示と関係者の理解と納得です。第三者殺人事件等の重大事件では、少なくとも中立機関の調査は必要で、情報を開示して、その上で、堂々と、医療の都合を主張するべきです。

本件裁判では、いわき病院長渡邊朋之医師の精神科臨床医療に精神保健指定医としてはあり得ないはずの、統合失調症の治療に関する勉強不足及びSSRI抗うつ薬パキシルの添付文書を読まないし読んでも「重大な注意事項」に関する指示内容を正確に理解できない問題が判明しました。その上で、渡邊朋之医師は主治医であるにもかかわらず、複数の向精神薬の同時突然中止に関連して、看護師に注意と観察事項を指示してチーム医療を起動することがなく、自らも経過観察と治療的介入を行わない医療放棄の状態にありました。しかしながら秘密主義では、いわき病院の渡邊朋之医師のような破廉恥な医師がいても、反社会的な事実が知られることがないため、社会が対策を取る可能性が封じられて、より良い精神科医療に発展しません。これでは公序良俗に反します。「国民に知らしめないことが医療者には好都合」という考え方は、現代的ではありません。また、そのような対応は、今日の国際社会、多民族・多文化社会では、日本の尊厳を損ないます。

いわき病院と渡邊朋之医師が行った事は医療現場の腐敗であり、破廉恥です。普通、常識としてあり得ないはずで、にわかには信じられないことです。この事実が判明したことは、社会の仕組みを再点検する必要性を暗示します。そして、社会の仕組みを改善するためにも、ターニングポイントが必要であり、渡邊朋之医師には責任を取らせるべきです。全ての医師が渡邊朋之医師と同じではないことは、当たり前だし、渡邊朋之医師は、極端な事例と信じます。しかし、いわき病院の事例がある現況は間違いです。社会の仕組みとして、正義と合理性が成り立たず、法秩序や原理原則が守られておりません。渡邊朋之医師の野津純一氏に対する医療は、健全な社会を破壊する反社会的な行為です。

精神医療に関連した、精神科医療の第三者である殺人事件の被害者に、社会の仕組みとして救済の道が何もないのはおかしいことです。司法には、考えるべき事、そしてやるべき事があります。また、いわき病院のような医療側の怠慢が放置されて、医療者が秩序破壊者や国民の生存権の否定者になってはいけません。この裁判を通して経験したことですが、いわき病院は外出許可者の10人中7人までが殺人事件を引き起こしても外出許可を出した病院に責任を取らせることは間違いと主張しました。そしてその様な精神科医療機関を批判することは精神科開放医療を破壊する行為であると控訴人(原告)を非難しました。被害者側に「精神医療を批判することは秩序破壊者である」を決めつけるいわき病院が行った対応では、社会は改善せず、建設的な対応ができなくなります。私たち控訴人は、この裁判をきちんとやり遂げることで、控訴人の提案として、日本の精神科医療の改革が端緒を得ることになると確信します。

本件裁判で、いわき病院は「病院の都合で、市民の生命を犠牲にすることを容認する論理」を主張しました。残念なことに、地裁は、その非人道的な論理を見逃しました。しかし、その見逃しは許されません。国民の生存権に抵触します。


(3)、健全な精神科医療を育てる医療側に対する際限の無い責任追及

いわき病院は本件裁判の当初から「いわき病院は真っ当な精神科医療を行っていた。しかし、原告は理不尽なイチャモンをつけて、精神科開放医療の促進と精神科医療の発展を阻害しており、けしからん」という論理で反論してきた。しかしながら、診療録や看護記録等の医療記録や、鑑定人の鑑定意見から判明したいわき病院が野津純一氏に行った精神科臨床医療事実は、主治医の不勉強と義務違反による医療放棄という、反社会的行為であった。いわき病院は原告の主張は精神科開放医療の促進という日本の国際公約を闇雲に批判する行為であり、精神科開放医療の発展を阻害する行為であるとして、反論した。そして残念ながら、高松地方裁判所は、いわき病院が野津純一氏に対して行った怠慢の実態に目をつむり、いわき病院に法的過失責任を認めない判決を下した。

精神障害者による第三者殺人事件は発生し得る問題である。精神科医療と精神薬理学の進歩に基づいて誠実に精神科臨床医療を行うなら、精神障害者による第三者殺人事件は確実に減少する。しかし、殺人数をゼロにすることは困難である。同時に、精神障害者でない者の殺人犯罪をゼロにすることも困難である。しかし第三者殺人者数がゼロにならないからとして、精神科病院は何も努力をしなくてもよいという理由はない。いわき病院は、過剰な前提を持ち出して「その実現可能性はないので、日常的に可能な常識的な確認事項であっても、患者の病状を知る努力を何もしない、患者の治療放棄に責任を取る必要は無い」という詭弁である。病院として、医療機関として、また医療従事者として当然行うべき最低限の義務を果たさない無責任な抗弁は許されない。この様な医療機関と医師には過失責任を取らせることが必要である。医療者として行うべき責任を果たさない医師や医療機関に責任を問わなければ、医療者の怠慢と不作為を許すことになり、医療は荒廃し、精神障害者の人権回復と社会参加の道が閉ざされる結果になる。

反対に、医療者に対する際限のない責任追及は医療の進歩に貢献せず、公衆の福祉も実現しない。人間は誰も最後には死すべき運命にあり、死の時には医師が立ち会うことが当然であり、死という結果が発生したことだけで医師に責任追及することは間違いである。ただ、現代社会は情報化社会で知識の共有化が進み、更に高学歴社会で市民の理解力は高度化した。医師だけが問題の本質を理解して、情報を占有した時代は過去の事である。その意味で、疑わしい場合には、医療には説明責任が伴い、医療者は妥当性がある医療を行ったという説明責任を果たした上で、原則過失責任が免除されることが適切である。


(4)、論理と人道主義に基づいた精神医療改革

「司法が保安処分的な受け皿として必要としている精神科病院を敢えて敵に回すことはよほどの世論の動きがなければ難しいのではないでしょうか」という意見は、大きな「世論の動き」がなければ社会改革が実現することは困難という、政治的な世論の動きや活性化に期待した意見と思われる。しかし「司法が保安処分的な受け皿として精神科病院を必要としている」としても、渡邊朋之医師が行った「治療放棄」という社会的不正義と法的義務違反には、司法は厳しく対応することが法治社会の原理である。「精神科医として常識を持たない主治医の、あたら殺人者を作り出した破廉恥な医療放棄」にまで、精神科病院団体の社会的圧力を許すことになれば、法治国家としての尊厳と信頼が傷つくことになる。裁判事案としての本件は、いわき病院と渡邊朋之医師の錯誤した医療行為と治療放棄という事実に過失責任を認定することで、控訴人は法治主義を貫徹して社会正義を実現することで、理性の力で健全な社会を作り上げていくことができると確信する。

いわき病院は本件裁判を開始するに当たって、「精神科開放医療は国連等の国際社会に表明した日本の国際公約である」と宣言した経過がある。控訴人(地裁原告)はこれに反対せず、日本で精神科開放医療が着実に拡大することを願う。いわき病院が主張した「精神科開放医療」は、スローガンに終わり精神障害者の医療に貢献する現実が伴わない。いわき病院は「開放医療」という言葉を、自らの定義でねじ曲げて「無責任な医療」、「何もしない医療」更には「精神障害者を擁護しない医療」に変更して、治療放棄の惰眠をむさぼっている。この様な無責任で医療放棄の状況は、何も大衆運動や政治運動で対応する必要はない。医療の不作為放棄の行動には、反社会的行為を行った事実により法的過失責任を課し、社会的制裁を行えばよい。いわき病院のような不誠実な医療機関には社会的制裁を科すことで、自ずと日本の精神科開放医療は促進する。

控訴人は、日本が法治社会として、不誠実な医療放棄を行った医療法人社団以和貴会に、当然あるべき法的過失責任を確定する事を願う。精神科医師が現代の精神医療を誠実に勉強して、誠実に医療義務に応えるならば、精神科開放医療は促進され、より多くの精神障害者が人権を尊重された社会生活を歩むことが可能となると確信する。



 
上に戻る