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第2回の勉強会では、元検事で弁護士の郷原信郎氏を訪ね、日本の司法や検察の問題点についてうかがいました。郷原氏は、元検事という立場でありながら、検察批判を続けている貴重な存在。コンプライアンス(「法令遵守」ではなく、「社会の要請に応える」というのが本来のコンプライアンスという立場)の専門家でもあります。
  最近では、検察の在り方検討会議委員、九州電力第三者委員会委員長、オリンパス監査第三者委員会委員など、いろんなところで活躍されています。
  この日も大変お忙しいなか、私たち一つ一つの質問に丁寧に答えてくださいました。
  個人的には、“「公証人」をほぼ検察が独占している世界から開放するといい”という指摘に興味を持ちました。全然そういう事実を知らなかったので…。ロースクールを出ても就職がない人たちが大勢いるといいますから、「公証人」ポストはもっと開放してほしいですね。

(ロゼッタストーン編集部:弘中百合子)

第2回 「理想国会」勉強会 郷原信郎氏との質疑応答要旨


●検察の何が問題?

検察の問題というのは、日本の司法の特質を反映している。日本の司法の特徴は、社会の周辺部分で後始末をする、刑事司法であれば犯罪者という特殊な人たちの後始末をするという世界。そういう刑事司法に関して、絶対的な権威を誇ってきたのが検察で、世の中の人は、検察そのものが正義と考えてきた。
  その正義の世界を検察は完全に独占してきた。検察の特徴は、すべて判断が内部だけで行われる、自己完結した組織であるということ。政治をはじめ、あらゆるものが検察の捜査とか処分に介入したり影響力を及ぼしたりすることは、つつしむべきこととされてきた。
  だから内部でどういう判断をおこなったのか、どういう理由でどういう資料に基づいているのか、といったことはほとんど開示も説明もしなくていい。これが独立性を極端に保証された検察の正義の世界だった。
  典型的な伝統的な犯罪…、殺人とか強盗とか、泥棒とか、そういった犯罪を犯す人を処罰する仕事をしている限りにおいては、検察をめぐる環境は大きく変わらない。検察のなかで技量を磨いていけば、仕事は十分果たせる。
  ところが、日本の社会のなかでも、バブル経済崩壊以降、社会の在り方がかなりアメリカ化してきた。司法の機能も、昔よりもはるかに重視されるようになってきた。本当に市民生活になじんだものになっているかどうかは別として、昔とくらべると、法令の機能、司法の機能というのがより高まる方向に向かっている。
  刑罰を法律の目的にそって社会の実情に即して適応していく、というのが法治国家における検察の本来の役割。日本でもそういう検察の役割が期待されるようになってきた。だから、検察には経済社会に起きたいろんな事象が持ち込まれるようになった。
  だが、検察の独特の正義の世界というのはなかなか変わらなかったから、いまの検察と社会の要請との間には、相当大きなギャップが生じてしまった。検察の一連の不祥事の背景には、そういった問題があるというのが、私の基本的な見方。
  世の中の変化にともなって検察が果たすべき役割も大きく変わってきているのに、社会の環境の変化に適応できなかったところに、検察をめぐっていろんな問題が発生した最大の原因がある。


●「検察の在り方検討会議」などをきっかけに、検察の改革は進んでいるのか?

根本的には、検察組織が社会の環境変化に適応できていないという問題がある。「検察の在り方検討会議」のときも、私はそういう意見を言ったが、そこでそういう根本的な議論が十分に行われたかと言ったら、ほとんどそうではなくて、起きた問題に対して、対症療法的に是正の方向が示されたという程度。
  そうはいっても、大阪の事件(※郵便不正事件。証拠物件のフロッピーディスクを改ざんしたとして、担当検事やその上司が逮捕された)などの不祥事の背景にある取り調べの問題とか、検察のストーリー中心の捜査の問題などが指摘され、それを正していかないといけないという方向で、いろんな具体的な方策が示されたことは間違いない。
  改革を実行する立場にある今の笠間検事総長は、まさに改革に執念を燃やしている。常識的な範囲内での改革としては、相当思い切ったことが行われてきたという評価はできる。しかし、それで検察が根本的に変われるかというと、その道のりはまだまだ長いと言わざるをえない。


●特捜部には経済、医療、ITの専門家なども必要?

検察というのは、基本的にジェネラリスト志向で、あまり専門家がいない。世の中が複雑化、多様化してくると、単なるジェネラリストでは、太刀打ちできない世界がたくさん出てくる。検察の一般的な知識だけでは対応できない問題にどう取り組んでいくのかということは、検察と社会との関係、検察がどのようにして社会の要請に応えていくのかということを考えるうえでは、非常に重要だ。ただ、検察組織の内部に専門性を持ってくるのか、外部の専門機関との連携を深めていくのか、いろんな考え方はありえる。たとえば証券取引の分野であれば、証券取引等監視委員会との関係をもっと大事にしていくとか。いままでもそういったことはやってこなかったわけではないが、中身をもっと充実させていくことが必要。だが、問題は、そういう専門知識の話だけではなく、基本的な考え方が理解できているかどうか。
  たとえば証券市場の犯罪がライブドア事件とか、村上ファンド事件で検察の主導のもとに摘発された。あのときに額に汗して働くのがどうのこうのと言った特捜部長がいたが、あの人たちは、何もわかってない。証券市場っていうのがそもそもどういう機能を持ったもので、証券市場の公正というのはどういう考え方なのか、その根本がわかっていない。
  専門知識の問題ではなく、むしろセンスの問題。センスが悪い人間が多すぎる。ストーリーを書いて調書に署名させることはできるけれども、自分の頭のなかで、世の中で起きていることをしっかりイメージして、それを抽象化して何らかの考え方で判断していくということが苦手な人が多い。物事を全体的にとらえることができない。局所的なストーリーの組み合わせになるから、全体として思いっきりはずれたことを考える。はずれたストーリーを押しつけようとするから、むちゃくちゃな取り調べになるということが、いままで起きてきた。
  これは検察という組織全体の人の育て方の問題でもある。もともと司法試験を受かって検察の世界に入ってきた人は、その時点においてはそこそこ優秀だったはず。ところが組織のなかで同じようなことばかりやっていると、考え方が凝り固まってしまう。伝統的な殺人とか強盗とか放火とか、そういう犯罪を処理するにはいいが、世の中の事象を正しく評価、判断して、それに対する捜査をやったり処罰をしたりするということには向かない。
  組織全体として世の中の要請になかなか適応できないという面があるのと、個人レベルでもなかなか柔軟性のある、発想の豊かな人間を生み出すことができないところに問題がある。


●検事個人の正義感がゆがんでいるのでは?

個人のレベルでものを考えると、根本的な問題解決にならない。たまたま大阪の事件は、フロッピーディスクの証拠改ざんが検察官にはあってはならないと、前田元検事を刑務所にまで送りこんだが、取り調べの問題も性格は同じ。被疑者が言っていないことを検察のストーリー通りに調書に仕立て上げて署名をさせるという行為と、そのままのデータだと具合が悪いから客観的な証拠を変える、これは何も変わらない。
  供述調書は無理なやり方で取っているんだということに気づいている検事はたくさんいる。では個人としてどういうことができるのか。何もできない。仮に組織全体の考え方は従来どおりで、ある人が「自分の正義感からすると、こういうことをやっちゃいけない」といって、特殊な行動を取ったとしたらどうなるか。完全にその世界からスポイルされる。
  はじきだされたって、法曹資格があるんだし、弁護士でもやればいいじゃないかと思われるかもしれないが、検察のお世話にならないと食っていけない。10年20年検事をやっていたら民事はわからない。刑事事件でどうやって食っていくか。先輩がいい仕事をまわしてくれて、初めて食べていけるので、結局その組織と、組織をとりまいている世界に忠誠を尽くしていかなければやっていけないことになっている。だから個人の正義感だとか、個人の独立した判断を尊重しろといったところで、いまの検察のシステムが変わらないかぎり、問題の解決にはならないと思う。


●検察改革のためには何が必要か?

根本的に解決するには、検察の人事制度とか、検察のキャリア制度、法務省と検察との関係、そういったことも含めて、全部変えないといけない。
  たとえば日本の検察は、他の行政庁と同じように基本的には自己完結していて、内部者が昇進していって、最後、検事長、検事総長になるというシステム。しかも、検察と法務省が人事的には一体化していて、法務省あるいは法務大臣による検察のチェックシステムが働かなくなってしまっている。
  だが、すぐにでもできる対策もある。「公証人」をほぼ検察が独占している世界から開放することだ。公証人ポストがあるから、検事は真面目につとめあげれば、70歳までは基本的に食うに困らないという世界が保障されてきた。天下りがこんなに叩かれているときにありえない。
  検察と一体化した法務省は、基本的に公証人というポストをどうにでもできる。本来は試験によって一般の法曹資格者も公証人にならせるようにしないといけないと、法律上はそうなっている。だが、試験をちゃんと実施しない。
  これを変えられてしまうと、検事は最終的にそういうポストを与えられなくなる。そうすると、自分で食っていくスキルを身に付けなくちゃいけなくなり、世の中にも目を向けなければいけなくなる。それによって、検察のキャリアシステムは、全然違ってくるだろう。


●無罪を主張すればするほど勾留が長くなってしまう「人質司法」。改善できないのか?

日本の刑事司法では重要な判断は検察が行う。裁判所がやることは、それに対するチェック。検察がやった認定、起訴、処分、それがいいのかどうかをチェックしているだけ。検察の取り調べ、検察が起訴するというところが裁きの場になっている。ということはそこで詳細な事実が認定されなければならない。そのためには、自白してもらわないといけない。裁判所ではなく、検察官の前で、あらいざらい真相を喋るのが「立派な被疑者のあり方」。それが普通であるためには普通の人が得をする、普通の人にとってメリットのあるシステムになってないといけない……だから「自白するものは救われる」、検察のストーリー通りに喋り、調書に署名するものは救われる。拒否するものは、逆にとことん不利益を受ける。こういうシステムにしておけば、みんな基本的に検事の前では喋る。それがシステム化されてきた。人質司法という制度を根本的に改めていくためには、そういう検察の機能が変わらなければいけない。
(もっと裁判所に権限があれば…)
  ところが裁判所も、そういう世界に甘んじてきた。自分が一から十まで事実認定をしようということではなく、基本的には検察が認定してきたことを尊重して、部分的にいろんなことをチェックしたり補充したりしながら、刑事の判決を書くというやり方をしてきた。たとえば特捜部の事件だったら、検察が組織をあげて立証してきたことを違うといって全然違う無罪のストーリーを組み立てるなんてことは考えもしない。すべてが検察の認定っていうのが中心になって動いてきた日本の刑事司法というのが前提にある。そういったもの自体を変えていかなければ、人質司法という状況も変わらない。


●検察は裁判で証拠を全部開示しなくてもいい。検察に利益があるものだけを見せる。弁護人が請求しなければ出してこない。真実を明らかにするには変な制度ではないか?

検察が認定した事実が真実だと思っているわけだから、真実に反する証拠は人を惑わせる証拠であって、そういうものを法廷の場に出しても混乱を招くだけ。検察の正義を否定するような証拠をなぜ出さなければならないのか、……という考え方。検察があらいざらい証拠を出し、それを裁判所で弁護士もちゃんと見て、いろんな証拠のなかから裁判所で真実を解明するというやり方を基本的に取ってこなかった。
  検察の認定事実が中心になって刑事司法が動いている限りにおいては、なかなか根本的には変わらない。
(国民は裁判所で真実を明らかにすると思っているが…)
  検察官が起訴したからといって、まだ有罪と決まったわけではないと、「推定無罪」というのは理屈ではわかっているかもしれないが、実際は「逮捕されただけで悪人」。結局そういう刑事司法のシステムを、実は世の中の多くの人がのみこんでいる。その考え方をみんな変えますか? っていう話。


●逮捕されただけで実名が報道されることが多いが、マスコミの報道も改めるべき?

日本の場合は、検察の認定が中心だから、検察が有罪だとだいたい犯人扱いされる。大きな事件では、勾留するかどうかについて、逮捕前に警察から事件の内容を聞いて検察がそれなりの判断を示している。贈収賄の事件などは、逮捕したときにはだいたいもう起訴が決まっている。そういうふうに、逮捕されても結局無罪になるというのは非常に少ないという状況をつくってきた。マスコミもそれにのっかって、逮捕された以上は犯罪者だという前提で報道してきた。
  それが真実かどうかは別として、たいていの人は人質司法のもとでは、仮に逮捕事実が違っていても、途中であきらめて認めるから有罪になる。逮捕段階での捜査機関側の判断がひっくりかえることは非常に少ない。だからマスコミも安心して犯人扱い報道ができる。逮捕したけどそのあとどうなるかわからない、勾留がつくかどうかもわからない、起訴になるかどうかもわからない、無罪になるかもしれない、っていうことを常に念頭におかなくではいけない状況だと、いまのような報道はなかなかできない。
  しかし、逮捕したときの刑事事件の報道の在り方は、非常に難しい問題。逮捕された段階で具体的な中身もわからない、有罪かどうかもまったくわからないような状態にすると、事件というものの印象が薄れた頃になってからようやく詳しいことがわかるという話になる。そういうことでは、世の中で起きていること、犯罪現象についてみんながきちんと知ることができない…というような感覚が昔にはあったのだろう。日本では警察や検察は、たまには間違えるかもしれないが、基本的には間違えないからいいんだっていうふうに思ってきた。いまは改めて、本当にそれでいいのかっていうことを考え直さないといけないのではないか。


●裁判員制度について

木嶋っていう女性の裁判(首都圏連続不審死事件)。全面否認で、直接証拠はほとんどない。非常に難しい事件で、実日数だけでも100日かかると言われている。相当な数の裁判員候補者が辞退をした。おそらく普通の会社員の人は、みんな辞退する。そうすると、どういう人が裁判員をやるかというと、非常に偏っている。本来は仕事が忙しいというのは、拒否の理由にならない。それを実際上認めている。それは、もともとの裁判員裁判の考え方がゆがめられているということだ。そういう裁判は被告人の立場からすると、受けたくないと思う。ところがアメリカの陪審員制度と違って日本の裁判員裁判には被告人側に選択権がないので、被告人は裁判員も含めた刑事裁判を受けざるをえない。これが問題がないとは到底言えない。


●特捜部は、一般の検事の仕事との兼務でいい?

常設部隊である特捜部が必要であるという人は、特別の部隊を置いておくことによって特別のスキルが身に付くと考えている。でも、僕は逆にデメリットのほうが大きいと思う。検察は決して情報収集機関ではない。検察が独自に重大な犯罪のネタがつかめるわけではない。
  実際はマスコミからの持ち込みネタが大部分で、あとは国税からの持ち込み。監視委員会とかそういったところからの情報提供を受けて捜査している。独自の情報収集能力がそんなに高くないところで、事件があるかないかもわからない段階から、たくさんの人間を抱えておくと、必ずそこには無理が生じる。多くの人間がこれだけの時間、ほかの仕事をしなかったんだから、大きな事件をやらないといけないんじゃないかというふうに、どうしてもなってしまう。しかもそういう状態で仕事をしていると、さっき言ったように、ますますセンスが悪くなる。人間やっぱり、きちんとした仕事を日常的にきちんとやっていないと能力が維持できない。何か事件がないかないかと週刊誌ばっかり読んでいたりするようでは、検事としての技量、本当の捜査とか証拠収集とか、取り調べというもののスキルが高まっていかない。だから日常的な事件をやりながら、自分で余裕を生み出して、それなりに努力をしながら、事件を追いかけていくということのほうが、私はいいと思う。


●検察が作成する供述調書の書き方は、検察でどういうふうに指導されるのか?

なにも指導はしていない。が、基本的に検事の能力としては、作文能力は相当ないとできない。検事の仕事は、言っていることをそのままテープレコーダーに取ったように調書にすればいいということではない。検察官調書というのは、自分の文章で、自分の言葉で、被疑者が言ったことをうまくまとめて書く。それだけなら問題はないが、被疑者が言っていることと違うことを自分のなかで空想して、あるいは上の人間が組み立てて、それを文章にしてということをやりはじめると、これはもう、完全なストーリー調書、作文調書になってしまう。少なくとも特捜部がこれまでやってきた事件というのは、ほとんどこういうストーリーだということを前提にして、検察が捜査を進めていて、被疑者がそれを認めて署名するかどうかの問題。どうしても、そこに作文の作業というのが出てくる。
  私自身も作文能力がかなりあって、それがこういうかたちで(著書『司法記者』を見せる)(笑)。


■『司法記者』(由良秀之/講談社)


郷原氏が由良秀之のペンネームで執筆した初めての小説。
ミステリーとして非常に面白く仕上がっています。
検事の作文能力の高さは、もしかして平凡な作家以上…!?

●取り調べの可視化についてどう思うか?

可視化の問題に関しては、重要な視点が欠けている。取り調べを可視化するということは、可視化した記録が残るということ。問題はその記録をどう使うか。日本のいまの検察が進めようとしている可視化は、可視化の結果得られた供述について録音、録画は、そのまま裁判で証拠にできるのを前提にしている。これはある意味では非常に危険。無条件に証拠になるということだとすると、これは裁判と変わらない。裁判所で被告人質問やっているのと同じ。
  裁判には本来弁護人がいる。裁判官は中立的な立場で被告人質問にしても、証人尋問にしても、いろんな観点から、管理をしている。ところが取り調べは、検察官と被疑者、参考人だけ。その場で、そこで喋ったことがそのまま全部証拠になるとすると、逆に、被疑者や参考人にとって不利になる場合もある。
  いまは、たまたま、取り調べの可視化に十分に検察官も警察官も対応できていない。だから逆に委縮してしまうというような話ばかりでてきて、検察官に有利な方向に働かないように思われているが、これが完全に定着すると、かえって可視化した状態でどんどん証拠化されていってしまう。それはあとでまったく取り消せない。被疑者が自分で喋ってるじゃないかと。それは危険な面でもある。
  韓国は取り調べを全面可視化しているが、無条件に証拠化することは認めていない。
  そもそもなぜ可視化しないといけないのかということを考えると、言ってもいないことを調書にして署名をさせる、その過程で恫喝とか、利益誘導とか、そういったことが問題になったから、不当な取り調べを抑制するということが目的だったはず。だとすれば、被告人、弁護人の側が不当な取り調べが行われたと主張したときに、それを確かめるために使うというのが原則だと思う。
  しかし、検察がとんでもない取り調べをするからそれを抑制するだけだというと、検察的には何のメリットもない。だから検察は取り調べの可視化を逆にプラスの方向に結び付けようとした。日弁連は、まんまとそれにのっかっちゃった。私はそこが一番大きな問題だと思う。


●とんでもない検事や裁判官を早期に発見してその職から退いてもらう方法はないのか。逆に公正な審理をする検事や裁判官を評価する方法はないのか?

民意によって裁判官を選んだり、検察官を選んだりするっていう方法が、本当に正しいのかどうか、これは難しい問題。確かに国民審査は本当に形式的なもの。国民審査で罷免されるなんてことは、予定していない。国民の信任を得ているっていうかたちをつくっているだけ。それはもともと司法の世界の問題や裁判官の判断の正しさなんていうのは、一般人なんかにわかるわけがないという前提で考えているからだろう。
  だが、本当に国民審査を選挙みたいなかたちで人気投票で決めるようになると、これもやはり問題じゃないかと思う。そのあたりを、どこらへんでバランスを取っていくのか。国民審査を機能させようと思えば、判断材料を提示しないといけない。そのうえで、現在は投票者の過半数が×をつけると罷免だが、否定票が何分の一か集まったらやめてもらうというようなことをやっていけば、それなりに国民審査も機能するようになるかもしれない。
  検察官を民意によって選んでいるのがアメリカ。連邦検事が選挙によって選ばれる。しかし、それが本当に検察のあり方としていいのだろうか。アメリカでもかなり疑問視されている。選挙で選べばいいという単純な問題ではないような気がする。
  ただ、少なくともいまのような、年功序列、終身雇用の世界を維持していていいのか、というところはやはり問題がある。そういう人事、組織のあり方をこの際考え直してみることは必要だが、一足飛びに選挙で選べばいいということではないのでは? 民意というのは、ストレートにそこに反映させるにはやや問題があるんじゃないか。
  検察官適格審査会っていうのがあって、国会に設けられているが、いままではよっぽど、頭がおかしくなったとか、よっぽど破廉恥な行為をやったとかいうことがないかぎり、適格審査会の審議の対象になったということはなかった。その「適格」の判断の範囲を、もっと広げるべきじゃないかという考え方もある。それも組織のあり方そのものに関わる問題。


●検察にとっていちばんプレッシャーになるのは何か?

政治というのは、まかり間違うと人事に介入してくる。検事総長を外から持ってくるとか。人事制度そのものを変えることだってできる。だから、政治に対してはすごく警戒をしている。
  マスコミを通して「民意」というのを非常に気にしているのも間違いない。日常的に世の中からどう見られているか。マスコミがどう報じているかということを非常に気にしている。
  もう一つそれと関連するが、被害者遺族の存在も大きい。10年ぐらい前までは、被害者遺族の権利というのは無視され、配慮がなさすぎた。最近は被害者保護、被害者への配慮が叫ばれるようになって、検察の立場は逆に、被害者遺族が言っていることには逆らえないっていうのに近くなっている。
  マスコミの報道もそうだし、制度もそうなってきている。検察審査会の強制起訴もそうだが、最終的に被害者・遺族の意向は極端に重視される。そういう面で、検察にとって被害者遺族というのは昔と違って大きな存在で、プレシャーの元になっている。
  しかし、残念ながらそれぞれのプレッシャーは、まだ検察の組織そのものを変える方向には働いていない。それを変えるなら、やっぱり政治しかないだろう。


●小沢事件について。なぜ検察は小沢氏にこだわったのか?

2.26事件と一緒。反乱軍のしわざであることが、ほぼ明白になりつつある。検察の組織的な決定は不起訴だった。それでは絶対納得のできない検察の一部の人間が、2.26事件と同じように決起してひっくり返そうとした。
  私がずっと言い続けてきたように、陸山会事件もその前の西松事件も無茶苦茶。それを放置しておいたら、検察がなんでもできる世界になってしまう。そっちのほうを大事にしなくちゃいけなかったのに、民主党は完全に党内の小沢派、反小沢派の抗争に明け暮れて、検察のアクションを自分たちの政治闘争の道具に使ってしまうという最悪のことをやってしまった。検察の間違いは間違いとして指摘し、そのうえで、きちんとした論戦をやって、小沢氏の政策と真っ向から勝負するべきだった。
  みんな、親小沢か、反小沢かということでしか、物を見ない。一方で「検察の正義」の神話みたいなものから脱却できない状態で、その「正義の検察」が政治的に使われた。ようやく大阪地検の事件で、ああ、検察は正義じゃないのかってことに気が付きはじめたが、遅かった、それも。
  東京地検特捜部が異常なまでの執念で行った小沢事件捜査が、民主党政権を完全にぐちゃぐちゃにしてしまったのではないかという感じがする。



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