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第21回 硫黄島スタディー・ツアー


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C-1輸送機の窓から見た硫黄島全景 (以下、写真をクリックすると大きく表示されます)

クリント・イーストウッド監督映画「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」に刺激され、特別企画委員会では国内海外を問わず記者団としては初めて硫黄島研修ツアーを12月13日実施した。久間防衛庁長官から内局、制服組にまでの折衝でやっと実現したものだが、今まで遺族や遺骨収集団同行以外では取材は許可されず、防衛庁記者クラブも訪問していないとのことで、あくまでも将来の記事執筆に向けての調査視察という建前であった。

募集人数15名に対し各国メディアから倍以上の応募があり、公平を期するため抽選にしたのだが、それでも抽選に漏れた記者から直接の「陳情」や「怒り」の抗議が委員長である筆者に殺到した。また前日に「機体のトラブルにより改めて別のC-1輸送機を取り寄せるので離陸が1時間遅れる」との連絡が防衛庁から入ったときには、ツアー取り消しという最悪のシナリオまで覚悟した。 そのため輸送機の窓から擂鉢山(すりばちやま)からなだらかに流れる海岸線を見た時は「ようやくここまでたどり着いたか」と安堵してしまった。

戦場が合歓の木茂る島へ

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海軍医務科壕(野戦病院)

硫黄島は現在東京都小笠原村に所属する22平方キロの小島で東京とサイパンのちょうど中間にあり、埼玉県にある入間基地から海上自衛隊C-1輸送機で約3時間。戦後米軍が死臭を嫌って航空機で撒いたねむの木が生い茂り、機上からは一見地上の楽園のように見える。しかし、未開拓の洞窟や断崖、飛行場の真下にも総計一万三千柱の遺体が今なお放置されたままになっている。

現在、島に住んでいるのは海上自衛隊員約250名と基地に働く民間業者10名のみ。もとの硫黄島住人の帰島は許可されず、遺骨収集団以外の一般人の入島も認められていない。

硫黄島での死闘

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今なお石油ドラム缶や貴重品箱がそのまま残されている

自衛隊員の「戦闘食」の見本として注文したかやくご飯とさばの味噌煮の缶詰めランチを済ませた後、バスで島を一周した。といっても活火山の台地のような島で山道と洞窟探検にはトレッキングシューズが役に立つ。

活火山で熱帯性蔦類に入り口を覆われた海軍医務課壕に入ると、内部に行くにつれて天井が低くなり硫黄臭がする。燃料タンク、樽、かつて医薬品を入れたと思われる貴重品箱など当時を忍ばせるものが摂氏40度の地面に置かれたままになっている。空気穴の下に入ると息がつけるが、同時に「タッチ・アンド・ゴー」訓練飛行中のF-15戦闘機の轟音が耳を襲う。

硫黄島総指揮官陸軍中将栗林忠道の「地下陣地からの近距離攻撃作戦」に背いて上陸作戦二日前に海岸線を撃破している戦艦を狙い、自ら居場所を敵に知らせて攻撃の的になり、貴重な大砲12台や格納していた弾薬を失わせた海軍の水平砲の銃身には枯れ草が詰めてあった。島には他にもVIPや防衛大学生などが訪問していたが、ひょっとして彼らが枯れ草に「兵どもが夢のあと」の感慨を込めたのだろうか。

プレス・クラブの会員でもあったAP写真記者ジョー・ローゼンサルが伝説化した海兵隊員による擂鉢山上の星条旗掲示跡には海兵隊の慰安碑が築かれ、慰問に訪れた数百人の米兵のドッグ・タッグ(兵隊が首にかける非常認識票)チェーンが吊るされている。

「父親たちの星条旗」では硫黄島戦を米国側から、「硫黄島からの手紙」では日本側からの視点で描かれているが、共通しているのは体制側リーダーの無責任さ。組織上、それに従わざるを得ない忠実なサブ・リーダーである現地司令官とさらにその下で任務に励むフォロワーである一兵卒の悲劇だ。

鎮魂と基地の島

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「勇み足」海軍水平砲

話は飛躍するようだが、ハーマン・メルビルの名作「白鯨」ではエイハブ船長の白鯨に対する狂気が船長亡き後、一等航海士に乗り移って鯨を追い続けボートは難破する。唯一生存した甲板員イシュメルがこの悲劇を民衆に伝える。

硫黄島の海を見て考えたのは、戦争というものは「白鯨」で、ひとたび火蓋を切れば戦争ゲームに我を失って狂気が増幅する。米国留学、カナダ大使館勤務の経験のある栗林中将やロスアンゼルス・オリンピック乗馬術で金メダルを獲得した西竹一男爵も、なまじ国際派ということで大本営本部に嫌われ、「白鯨」の前線に犠牲になるため送られている。

敗戦色が濃くなった1945年。まともな指導者なら当然この二人を敗戦処理のために本部に残しておくべきではなかったか? 歴史に「もし」はないが、サイパンが落ちたとき天皇陛下のご聖断があれば、硫黄島をガソリン補給の中継点として行われたB-29による東京大空襲、広島長崎の原爆の悲劇も防げたのではなかろうか。

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数百のドッグ・タッグ(非常認識章)が捧げられた海兵隊上陸記念碑と筆者。背景は海兵隊が攻め込んだ「侵略海岸」

戦争を始めたものは出来るだけ犠牲者を出さずに戦争を終結させる責務がある。 大日本帝国は天皇も軍部も終結のシナリオ無しに戦争に猪突猛進した。今、硫黄島の悲劇を国民にかたる資格があるのは英雄である栗林中将や西男爵でなく、イシュメルトと同じ庶民の一兵卒であるパン職人西郷ではなかろうか?

2006年12月22日現在、イラクにおける米軍の死傷者数は2964名。硫黄島戦の敵国民は、既に中間選挙でブッシュ大統領のイラク戦争にはっきり「No」を突きつけた。

擂鉢山の上空では沖縄では騒音問題があったF-15戦闘機の「タッチ・アンド・ゴー」訓練が休みなく続いている。戦争は好まなくても軍備が必要ではないといえない国際社会、硫黄島訪問を機会に特派員たちと今後とも防衛問題を考えてゆきたい。

2007.1.4 掲載

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