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第161回 森英恵さんを偲ぶ

森英恵さんが8月11日96歳で亡くなってもう2か月、猛暑で蒸しかえっていた表参道にも秋風が爽やかに吹いている。12年前に取り壊されたが、「ハナエ・モリ・ビル」はこの表参道を見下ろす地上5階、地下一階の蝶の形をしたハーフ・ミラーの建物だった。その6年前(2004年)、プレス・クラブのフロント・スタッフたちはこのビルの巨大な鏡に包まれた仮縫い室で制服の仮縫いをしてもらい、私もその後、個人的に3回通うことになったのだ。

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森英恵さんを囲むあたらしい制服を着たスタッフたち(2004年)

「まず、カメラマンにフロントで働く姿を全角度から撮影されたのよ!」。「鏡に囲まれて、仮縫いしてもらうなんて花嫁衣裳みたい!」。スタッフたちは大喜びだったが、財政破綻で民事再生法により三井物産に買収されるハナエ・モリの財政事情を知り、私は戸惑った。制服寄贈を依頼した時点では「森コンツェルン」は日本ファッション業界最大、最強だった。財政破綻は、あくまで会社の破産であり、個人や家族の資産は守られるとはいえ、寄付を受けるのはどうか。「購入に変えたい」と申し出たところ、専務の吹田靖子さんはニコニコ笑いながらもキッパリ拒否。「うちは森英恵の個人商店です。森が言ったことは絶対変えられません」 そこで私としては森さんの顔を潰さず会社にも損をさせない(なくなる会社であっても)方法を個人的に思案した。

* * * * *

森英恵さんは1926年島根県の生まれ。戦後新宿の靴屋の2階に洋装店を開き、やがて敗戦からの復興当時、「太陽の季節」「秋刀魚の味」など貴重な国民的娯楽としてブームになった映画の衣装を担当。映画ブームが落ち着いた1961年、ヨーロッパを歴訪、パリでオートクチュールの世界と出会い海外をも視野に入れた活躍を始める。

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森英恵さん(2004年)

1965年にはニューヨークで「MIYABIYAKA」コレクションを発表。New York Timesから「東と西の出会い」との好評をうけた。ファッションのトップ・ブランドとして五番街のサックス・フィフス・アベニューやバーグドルフ・グッドマンに特別セクションも設けられるようになった。1977年にパリ・オートクチュール組合に初の東洋人として迎えられ、78年にはついに表参道に「ハナエモリ ビル」を完成させたのだ。デザイナーとしては皇太子妃(現美智子上皇妃)、モナコ王妃グレース・ケリーの服装を担当。1989年フランス最高勲章レジオン・ドヌール、1996年ファッション業界人として初の文化勲章を受けた。

さて、森英恵さんは2004年9月2日、「プレス・クラブ 森英恵ディナー・パーティー」でスタッフのラン・ウエイの歩きぶりを褒めた後、9月9日にパリ秋―冬オートクチュール・ショー「East Meets West」を新国立劇場で開催し、これをもって50年のデザイナー生活から引退すると宣言された。

引退前後の超多忙の中で制服を引き受けたのは「プレス・クラブはグローバル・コミュニティーの人々が日本と出会う最初の場所で、フロント・デスクはクラブの顔だからです」とスピーチし、満場の拍手喝采を浴びた。

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No.1 Shimbum 森英恵さん特別ディナー記事(2004年)

森英恵さんを評してメディアは「華麗な人」という。私は彼女の本質は仁義を重んずる「侠気の人(おとこぎのひと)」だと思う。「華麗」は単に目に見える彼女のファッションやスタイルである。

映画界の新人たちにファッションを豪気にも無償で提供しつづけたし、米国進出に踏み切る度胸もあった。私は彼女の成功の根源は侠気とそれを優しく包むエレガンス、会社経営を支えたお連れ合いの力だと思う。

改めてご冥福をお祈りしたい。

2022.11.1 掲載


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