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第101回 中央線の一日


僕は電車が好きだ。
  正確に言うと電車に乗って本を読んだり、人を観察したりするのが好きなのだ。文庫本を読みながら電車に揺られていると、普段の細かいイヤなことを忘れ、小さなシアワセすら感じるときがある。
  今は春、他の季節にくらべ車内も落ち着きがなく、ざわざわした感じが強い。満開の桜のせいかどうかはわからないが、この時期、桜に釣られて外へ出掛ける人は少なくはないだろう。おかげで車内にはいろいろな人がいて、人間ウォッチングにはこと欠かない。

先日も新宿から、青梅の河辺という駅まで中央線に乗った。
  時間にして約一時間の小旅行。平日の昼間と言うこともあり、座席は約7割の占拠率。中央線にしてはわりと空いている。

僕はいつものようにドア付近のはじっこのスペースの席に陣取った。
  その御婦人は、僕から見て斜め左方向のドアにもたれかかっていた。
  見たところ70歳前後だろうか、薄での緑色のカーディガンを羽織った御婦人は、なんだか疲れている模様で、何度も深いため息をついていた。
  この人、席が空いているのになんで座らないのかなぁ・・・まぁ、人はいろいろ好みや都合があるからなぁ・・・まっ、いいか・・・。

僕は読みかけだった、絲山秋子の「海の仙人」を開いた。
  基本的に女流作家はあまり好きではないけれど、絲山(いとやま)秋子(あきこ)だけは全作品読んでいる。この人の持つ乾いた孤独感になんとなく共感してしまうのだ。女流作家の作品で涙を流したことのあるのは絲山作品だけではないだろうか。絲山秋子の文章は心地よく流れるように読むことが出来る。
  今日は往復にして二時間の旅。「海の仙人」は、その間に十分読み切れる分量だ。

電車は中野に着いた。
  女子大生風の若い娘が乗ってきて、ドアにもたれかかっている御婦人のすぐ横の空いている座席に腰を下ろした。
  女子大生風の娘は下を向いて必死にメールを打っている。
  御婦人は急に落ち着きがなくなり、右手をプルプルと震わせ、そのうち激しく咳き込み始めた。
  ガホン、ガホン。
  まるで怪獣のようだ。車内の人々の注目が集まる。
  女子大生風の娘もメールを打つ手を中断して、御婦人に目を移す。
  それを見計らったかのように御婦人が口を開く。
  「携帯やめてくれませんか!!」
  ここは車内、優先付近での携帯の使用はもちろん禁止されている。しかし、この場所は優先付近からはかなり離れている。音さえ消していれば、メールの使用はかまわないはず。もしイヤであれば、空いている優先席にいけばいいだけのこと。優先席はかなり空いているのだから。
  だけど、御婦人は動こうとはせず、その場にうずくまってしまった。

「・・・すみません・・・」
  女子大生風の娘は、そう言って携帯を閉じ、
  「大丈夫ですか、座りますか」
  と御婦人に優しく声をかけた。
  でも御婦人はそれを無視してうずくまっている。女子大生風の娘は困ってしまっている。
  うーん、わからない・・・初めから席はちょこちょこ空いていた。なのにこの御婦人は座らなかった。そして携帯にものすごく反応し、うずくまってしまったのだ。

見かねた中年のおばさんが声をかける。
  「どこか具合でも悪いのですか」
  御婦人はいきなり立ち上がり、
  「ほっといてください!!!」
  そう言い放った。
  なんだ、元気そうな大きな声じゃないか。車内の誰もがそう思ったに違いない。
  本人がほっといてくれと言うのだから、こちらとしてはこれ以上何もできない。その場にいたみんなが、何事もなかったように無関心を決め込んだ。
  女子大生風の娘も再び自分の席に腰を下ろした。
  イヤな感じだけが車内を支配し、それは高円寺、阿佐ヶ谷と続き、その御婦人が降りた荻窪まで残った。

荻窪で御婦人が降りたとき、少しだけ後ろ姿を目で追ってみた。
  ホームを歩く姿は、べつだん何もなかったかのような元気そうな足取りだった。
  いろいろな意味でよかった。これで安心して「海の仙人」に没頭できる。
  電車は国分寺を過ぎ立川に着いた。ここから青梅線に入る。

僕の真正面に動物用のキャリーバッグを抱えた水商売風の60歳前後のまたまた御婦人が座った。
  えー、ここでひと言。
  これまで70歳前後とか60歳前後、はたまた女子大生風とか水商売風なんて勝手に言うのも失礼な話なのですが、これはもちろん本人に直接聞いたわけでもなく、あくまで僕自身の主観でありまして、これまでの経験値からそう思う、そう見えると言うだけで、決して女子大生や水商売をバカにしているわけではありませんので、そこのところはご理解いただきたい。

話を戻します。
  この御婦人、最初は静かだったのだが、しばらくするとキャリーバッグの動物ちゃんにしきりに話しかけ始めた。
  「お家に帰ったら御飯あげますからねぇー、それまでイイ子でいてくださいねぇー」
  かなり声が大きいので、周りの人が自然と注目してしまう。
  そんなことはお構いなしに「今日はお風呂に入りましょう」とか、「早く寝ましょうね」とか、「明日はどこに行きたいの」とか、御婦人はズーッと動物ちゃんに話しかけている。
  うーん、うるさいなぁ・・・と思うのだが、僕は無視して読書に集中。

電車は東中神を通過した。
  隣に座っていた母娘が、なんだかヒソヒソ話を始めた。
  「ねぇねぇ・・・あれ見て・・・」
  どうやら、正面に座っている御婦人の動物ちゃんについて語っているようだ。
  僕は何気なく、キャリーバッグの中の動物ちゃんに目を向けた。
  キャリーバッグの中は薄暗くて見えづらい。
  それでも目を凝らして見ていると、動物ちゃんと目が合った。
  ん?
  えっ?
  そ、そんな!!
  なんと動物ちゃんは猫のぬいぐるみだったのである。
  背筋が少しだけヒヤッとした。キャリーバックの動物がぬいぐるみだったとは・・・・。
  ぬいぐるみをペットのように持ち歩く人、もしくは動物をキャリーバッグに入れて電車に乗る人は、これまでにもお目にかかったことがある。しかし、ぬいぐるみをキャリーバッグに入れて持ち歩いている人を見たのは初めてだった。

たった1時間の間に、立て続けに目にしてしまった二つの出来事。おかげで「海の仙人」はちっとも進まなかった。
  うーん、春先はおかしな人を見かける確率が高い。
  二人の御婦人の日常を想像してみる。少しだけ暗い気持ちになった。
  それでも、人間長く生きていればいろいろな人を見かけることができて面白い、そう思うことで折り合いをつけ電車を降りた。

河辺での用事を済ませ、帰りの電車に乗った。
  青梅行きの電車は帰宅ラッシュでいくらか混んでいたが、僕の乗る東京行きの電車は空いていた。
  またまたはじの席に陣取り、「海の仙人」の続きを読むことに。
  グイグイと読む人間の心を掴む絲山作品。
  クライマックスでもなんでもない箇所で涙がこぼれてくる。
  絲山秋子の本はいつもそうだ、何気ない日常の描写で人の心を揺さぶってくる。
  車内で中年の男がポロポロ泣いているのはみっともない、そう思って本を閉じ、しばらく外の風景に気持ちを逸らせた。

電車は立川を過ぎていた。
  いつのまにか右隣には新入生風の紺色のリクルートスーツを着た青年が座っていた。
  紺色のスーツは真新しく、すべての折り目が立っていた。
  そのズボンの膝のあたり、ちょうど青年が左足を上にして組んだところに白くて長い糸くずを発見した。
  あっ、糸くずだ。
  そう思った瞬間、僕はその糸くずをつまみ上げていた。
  つまみ上げたと同時に、自分のしたことを後悔した。
  ここは電車の中、隣に座っているのは赤の他人、こちらとしては善意の行為であるが、この人にとってはどうだろう・・・・赤の他人が自分の膝の上の糸くずを取ったのだ。
  このオッサン、普通じゃないな・・・・、僕だったら間違いなくそう思う。間違っても、糸くずを取ってくれたいい人、とは決して思わないはずだ。

僕は慌てて次の駅で飛び降りた。
  降りるつもりのない駅のホームでため息をつく。
  気がつくとそこは荻窪駅。昼間、「ほっといてください!!!」と大声をあげた御婦人が降りたホーム。
  うーん、中央線の一日はいろいろあり過ぎて面白すぎる。
  「海の仙人」は結局読破できなかった。

         

2007.4.15 掲載

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