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第118回  新年早々の入院

2007年の暮れ、なんだか食欲がない日々が続いた。何も食べる気がしない、何も食べたくない。食事は摂っても一日一食。身体はダルいし、何もやる気が起きない。2008年、新年に入ってもそれは続いた。

1月4日(金)

身体がものすごくダルイ、なんだか熱があるようだ。
葛根湯を飲み、早めに床につく。

1月5日(土)

熱が39℃ある。
4年前、43℃の熱が一週間続いた肺炎を思い出す。

1月6日(日)

熱が下がらない。
身体の怠さに加え、頭痛がする。
4年前の肺炎をもう一度経験したくはない。
あまりに息苦しいので、救急車を呼ぶ。
C型肝炎と橋本病があるため、近所の緊急病院では受け付けて貰えず、かかりつけの順天堂病院へ運んで貰う。
インフルエンザの検査を行い、レントゲンを撮る。
インフルエンザは陰性、肺のレントゲンも異常なし。
点滴を打ち、薬を貰って帰る。

1月7日(月)

熱下がらず。

1月8日(火)

熱、まったく下がらない。
近所のクリニックへ行く。
「喉に白い黴が生えているので、他の病院に行きなさい」と言われる。
タクシーで順天堂病院へ行く。
採血、二回目のインフルエンザ検査、エコー検査、CT検査の後、点滴。
インフルエンザは陰性、他もそんなに問題はないと云われる。
熱冷ましの強めの薬を貰って帰宅。

1月9日(水)
このあたりから日記に天気を書いていない。
やはり熱が下がらない。
頭が痛い。
寝たきり。

1月10日(木)
熱下がらず、頭痛がどんどん酷くなっている気がする。
呼吸をするだけで頭に響く。
寝たきり。

1月11日(金)
熱下がらず。
頭が痛い。
もう我慢できない。
寝たきり。

1月12日(土)
昼過ぎだったか、飲み物がなくなったので、近くのコンビニに行く。
それ以後の記憶がない。
ここからは家人に聞いた話し。
夕方、家人が「救急車を呼ぶか」と訊くと、「呼んでくれ」と云った。
救急隊員が二階の僕の部屋までやって来て、数人でかつぎ下ろし、救急車で順天堂へ。
病院に着き、髄膜炎の恐れがあると言われ、髄液を取る。
このとき、大声を上げ、暴れる。
呼吸が浅くなってきたので、内科の集中治療室へ。
薬で無理矢理眠らされ、口から数十本の管を入れられ、手足を縛られる。
家族が呼ばれ、五分五分の確立で命が危ない、治っても後遺症が残ると告げられる。
この日のこれらのことは全て、後日聞いたことで、僕にはまったく記憶にない。

1月13日(日)
内科の集中治療室にて、意識不明の状態。

1月14日(月)
何時か知らないが、目が覚める。
ここがどこだか、自分が何をしていたのかさっぱりわからない。
まわりにたくさんの機械がある、どうやら、病院にいるようだ。
目の前に家人と名古屋に住む兄がいる。
なんで兄がここにいるのかわけがわからない。
言葉を発しようとするが、声が出ない。
無理に起きようとしたら、喉に刺さっていた管が外れたそうだ。
再び意識を失う。
このとき、病室の外では、次女、マネージャーの中村氏、アゴのプロデューサー福嶋氏が待機していたという。

1月15日(火)
この日、内科の集中治療室から脳神経内科の集中治療室へ移されたそうだ。
眼を覚ましたら、ベッドの脇に長男、長女、それに家人が立っていた。
わけがわからずに手を差し出すと、長女が握手をしてくれた。
なんだか、長女が怒っているように見える。
怖い。
また意識を失う。
どれくらい時間が経ったのかわからないが、周りが騒がしくて眼を覚ます。
医師や看護婦さんが周りでガヤガヤしている。
どうやら治療をしているらしい。口に入っていた管が外された。
外の空気が口の中に入り、気持ちが悪く、吐き気が酷く、苦しい。
口の中をみんながガチャガチャと弄っている。
「なんじゃこれは」と医者が大声をあげ、喉の奥にある異物を機械で吸い上げた。
凄く苦しい。
そのまままた昏睡。
この間、中村氏、福嶋氏、次女、兄は室外にいたようで、この日は会えずじまい。

たぶん夜だと思うが、眼を覚ました。
看護婦さんが近くに立っていた。
「中島さん、お目覚めですか?」
「はい」
「ここがどこだかわかりますか?」
「たぶん、病院です」
「どこの病院だかわかりますか?」
「わかりません。どこだか訊きたいのは僕の方です」
「ここは順天堂病院です」
「・・・そうですか」
「お名前は言えますか?」
「なかじまようすけ、です」
「生年月日は言えますか?」
「昭和35年6月23日です」
「はい、ありがとうございました」
「あのー、僕はどうやってここに来たのでしょうか?」
「中島さん、あなたは、まだ安静にしていないといけません。お喋りはこれくらいにしましょう」
なんだよ、喋ってきたのはそっちじゃないか、と思う間もなく眠りに落ちる。

なんだか足の方が痛いので目が覚める。
足元を見ると、足首のところが血まみれになっている。
声が出せないので、手を振って、近くにいた看護婦さんを呼ぶ。
「あらあら」
と云いながら足元の血を拭いてくれる。
どうやら点滴の針をつけたままなのに、激しく寝返りを打って、針が違う場所にも刺さったみたいだ。
「足を動かさずに、大人しく寝なさい」と看護婦さんに叱られる。
そんなもの、寝ている間のことだから、こちらとしてはどうしようもないのになぁ・・・。
このあと、何度もウトウトしかけるが、その度に足が動いてしまう、「中島さん!足を動かさないで!!」と激しく注意を受ける。
これでは、おちおち寝られなくなってしまった。
集中治療室の看護婦さんは怖いなぁ、と思った。
この日も集中治療室に泊まる。

1月16日(水)
何時かわからないが、「中島さん、歯を磨きましょうか」と看護婦さんに起こされた。
ベッドを45度くらいあげてもらい、歯磨き。
普段の僕の歯磨きは長い、最低でも15分は磨く。いつものように丁寧に磨いていると、「まだ、体力がないのですから、そのくらいで切り上げて下さい」と、まだ3分くらいしか経っていないのに歯ブラシを取り上げられてしまった。
次に「お身体拭きましょうね」と言うので、身体を任せて拭いて貰う。気持ちがいい。「お下も洗いましょうね」と下半身をモロ出しにさせられた。この時、下半身にオムツをあてがわれ、性器に管が繋がっていることを初めて知った。オシッコをした感覚がないのに、オシッコはしているみたいだ。なんだか気持ちが悪い。自分の生殖器が若い看護婦さんにいじられているのに、まったくもって無反応なのが可笑しい。
「靴下履きますね」と言って、ものすごくキツイ靴下を穿かせられた。
なんでも、エコノミー症候群の予防靴下だそうだ。
そのまま寝てしまい、気がついたら、集中治療室は出て、個室に引っ越していた。
しばらくして、家人、兄、中村氏が個室に面会に来てくれた。
ゆっくり、ゆっくりと口を動かし会話を交わす。
久しぶりに他者と喋る。
このとき、はじめて自分の命があぶなかったことなどを聞かされた。
兄は、もうダメだと思い覚悟したらしい。
でも、いくら話しをしても、どうも時間の感覚がみんなと違う。僕の感覚では、今日は1月13日の日曜日のハズなのだ。意識がなかったことが今さらながらに怖い。
食欲、まったくなし。

1月17日(木)
あいかわらず、かなり強い抗生剤の点滴漬け。
鼻には酸素が送り込まれている。
なんでも酸素量が5リットル(なにがどう5リットルなのかよくわからないのだが、とにかく5リットルと看護婦さんがいっていた)送られているらしい。これは相当な量で、普通は2リットルか3リットルらしい。
看護婦さんがオチンチンの管を外しにきた。
痛くはないのだが、尿道に入っていた管を外すとき、気持ち悪さに入り交じって、なんともいいしれない寂しさが襲ってきた。
看護婦さんが「どんな気持ちですか?」というので、「二度と味わいたくない感覚ですね」と返した。 この日、CT、レントゲン、脳波、呼吸器検査をした。
全て、車椅子で運んで貰うのだが、ものすごく疲れる。
検査の結果、肺にかなり水が溜まっているそうだ。
食事に手をつけていないと云うと、なんでもいいから口に入れなさいと言われる。仕方なくパンを一切れ口に入れたが、気持ちが悪く、吐きそうになった。

1月18日(金)
順天堂大学医学部の生徒の前に連れて行かれ、診察。
先生に、
「100から7引くといくつ?」
「93です」
「じゃあ、93から7引くといくつ?」
「87です」
「えっ!」
一瞬教室が凍ったのは確かで、僕もなんだかぼんやりしてしまった。
皮膚科診察、脳波検査。
脳波の検査は結構長い時間かかり、逃げたくなった。

1月19日(土)

採血、そのとき医師から、「午後に髄液を取ります」といわれる。
髄液というのは、ここに運ばれたときに一度取ったらしく、このときもの凄く暴れたと聞く。医師も「嫌なら無理にとは言いませんが、経過を見るためにどうしても必要なのです」という。
ここは覚悟を決めて、協力をすることに。
いくら麻酔を打つからと言っても、注射針が腰の奥に入っていくのは気持ちのいいものではなくて、不愉快きわまりない。この作業が終わるまでの約30分の間、生きた心地がしなかった。「ああ、随分とキレイになった」と先生。

1月20日(日)
一日約4万円の個室から大部屋へ引っ越し。
ここ脳神経内科は、お年寄りが多い。47歳の僕はたぶん最年少。
この日から、なんとなく食事が喉を通るようになってきた。
個室と違って、大部屋はたしかに落ちつかないが、人がそばにいる感じがして、快復が早くなる気がする。しかし、トイレはいまだに看護婦さんを呼んで、車椅子で行く。
大部屋での初めての夜。あまりに賑やかさにビックリ。看護婦さんは四六時中廊下を走り回り、ピコピコという機械音は一晩中BGMとして流れ、患者さんの雄叫びは十分おきに轟く。でもシンと静まりかえった個室よりも、案外熟睡できた。

1月21日(月)
糖尿病内科、痰の検査、皮膚科診察、レントゲン。
たくさん廻って疲れる。
この日から、トイレに関しては、酸素を外して歩いて行ってもいいことになる。
熱が下がり始める。

1月22日(火)
採血。
だんだん入院しているが退屈になってきた。

1月23日(水)
この日から、酸素を外してもいいことになる。
少し自由になる。

1月24日(木)
強い抗生剤の点滴のやりすぎで、点滴が漏れるようになってしまった。
1日で5回も針を刺し直すことに。

1月25日(金)

この日より、頭に余裕ができ、日記に天気を付け始める。
採血、胸部CT。
ようやく点滴外れる。自由。
売店まで歩いてもいいことになり、早速売店へ行ってみるが、筋肉が落ちてしまっているため、もの凄く疲れる。
採決の結果は、強い抗生剤のため、肝臓の数値がかなり高くなってしまっているとのこと。

1月26日(土)

月曜日検査結果次第で、月曜日に退院してもいいことになる。

1月27日(日)

この日は面会の人が多くて、人疲れ。
大部屋最後の日は熟睡。

1月28日(月)

糖尿病内科、消化器内科診察。
肝臓の数値は高いが、自宅で安静にしていれば数値は下がるでしょう、という判断から退院の許可が下りる。
「しかし、当分はくれぐれも安静にして下さい」とのこと。
病名は結局、ウィルス性脳髄膜炎。
気がついたら1月ももう終わる。
なんだか、散々な年の初めだった。
でも生きててよかった。
生かされててよかった。
もうしばらく人間でいられる。
あとしばらく、人間として頑張ってみようかな。

2008.2.25 掲載

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