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第125回  秋葉原無差別殺傷事件

あの秋葉原無差別殺傷事件から一週間が過ぎた。
  携帯に、昨年僕の授業を取っていた男子生徒のA君からメールが届いた。

──私はまだ、秋葉原の事件のことを考えています。最近また自殺や殺人事件が増えていますね。そんなことをする人が悪いのじゃなくて、日本の社会が悪いと私は思っています。プレッシャーが大きいことに、人が自分の悩みを話せる相手が居ないか、話しても親に怒られるだけ、という感じがします。しばらく我慢して、悩みを自分の中に貯めておくけど、それはいつか必ず爆発する。先生の意見を是非聞きたいです。どう思いますか?──

A君は日本に来て5年になるポーランド出身の留学生。多少日本語がヘンなのは、決しておつむが弱いためではない。それでも、彼が秋葉原の事件を自分なりにどう受け止めたらいいのか悩んでいるのは十分に伝わった。
  メールを返信した。

──あなたもあの事件のことをあなたなりに考えているのですね。そのことはとても嬉しく思います。しかし、あなたのように、あの事件と少しでも向き合おうとしている生徒が何人いるでしょうか。その数の低さが、ああいった事件を引き起こす要因にもなっている気がします。
  あなたは、「日本の社会が悪い」と言いました。でも、その社会をつくっているのは人間です、私たちです、そして君たちでもあります。あの事件が起こったのは、自分たちのせいでもあるのです。犯人だけのせいにしてはいけないのです。
  ただの頭のおかしな人間のせいにするのは簡単です。そう、人の「せい」にするのはとても楽なことです。犯人も「世の中が嫌になった」と言って、何かの「せい」にして、犯行に及んでいます。そうなる前に、何かの「せい」にする前に、もう少し自分を省みることができていれば、あんな事件は起こらなかったのではないでしょうか。
  今回の事件で感じたのは、人間である以上、誰もが被害者に、そして加害者になる可能性があって、その確率は決して0%ではないということ。それをしっかり自覚することが、いま必要なことだと思います。
  人間なんて、とても脆いもの。善と悪の間をいつも行ったり来たり。悪の振り幅が、ある日突然、目盛りを振り切ってしまうことだってないとは言えません。なのに、みんな他人事。あれは、頭のおかしいヤツのやったことだから、とか、あいつは特殊なヤツだから自分とはまったく関係がない、とか、事件を己から随分と離したところに置いてしまいます。同じ人間が犯した事件にもかかわらず、己に照らし合わせて考えることをしないで、全ての悪行を犯人一人のせいにして、あとは知らん顔。それの繰り返し。
  一人一人がしっかりと事件を刻み込んで、決して繰り返さないようにしなくてはいけないのだけれど、知らんぷりを決め込み、結局は忘れてしまう。それは何故だろう。きっと、向き合うことは苦しく、面倒で、それでもっていつまでたっても答えは出ないからだと思います。最近の人は、みんなすぐに答えを求めます。まるで、答えの出ないものを否定するかのように、結論だけを急ぎます。人生、そうそう結論なんて出ません。結論よりも考えることに意味があるのです。
  しかし、多くの人々は「結論が出ないなら最初から考えない方がいい」と、はなから考えるという行為をやめてしまいます。答えが見つかるものしか考えない、これがいちばん良くないことです。答えは見つからないかも知れないけれど考え続けることこそ大切なのではないでしょうか。あなたは考え続けて下さい。犯人は、何をどうしたくて、それを犯したのか・・・。こんどゆっくり学校で話しましょう。ではまた──

メールを返信していて、他の生徒のことを思った。みんなは、この事件をどう捉えているのだろうかと。多くの生徒は、きっと心の中では、いろいろ思いを巡らせているはず。しかしながら、結局それを人に伝えたり、意見として戦わせることはなくて、ひとり、心の奥に仕舞い込むことになるのが大半だと思う。表に出すことなく、溜め込んだものはどうなるのか。そこまで想像をすることは決してなく、そのうちに無関心になっていってしまう。

ポーランド出身のA君も言っているように、悩みを話せる友達がいないのかもしれない。本当は話したいのだけれど、話したことによって、相手にとっての自分の評価が変わってしまうのが怖いのかもしれない。とにかく本音で話すことをしない。大学校内を見渡してみても、なるほど、生徒たちは楽しそうに喋ったり、はしゃいだり、なんとなく賑やかにはしている。でも決して、意見を戦わせたり、真剣な顔で何かを語ったりはしていない。きっと、彼らにとって、真剣になることは恥ずかしい事なのだろう。

まぁ、それはわかる。僕たちも真剣に何かを語ったりすることは恥ずかしいことだと思っていたし、いまだにそういう傾向はある。でも、そうは言っても、語り始めたらいつしか熱くなり、身振りが加わり、気がつけば唾も飛ばしている、なんてことになるのが人間だ。なぜ唾を飛ばすのか。簡単に言えば、他者に自分の事を解ってもらいたいからだ。解ってもらいたいから、必死になって頭を使い、言葉を探し、自分を表現する。

今の若者たち(こういう言い方は好きではないのだが・・・)はどうだろう。唾も吐かずに、自分を解ってもらおうとしているように見えるのは僕だけだろうか。何のアイディアもなく、何のアクションも起こさず、何も意見を言わず・・・。いや、違うな、ネット上の匿名の世界では多少はものを言うらしい。しかしそれも、ほとんどの場合、自らが創りだした虚勢を張ったもう一人の自分であって、生身の本当の自分ではない。仮想の世界の仮想の人物が、意見を発し、攻撃に遭い、爆発する。問題はここ。爆発も仮想の世界でしてくれれば良いのだが、爆発は現実世界で起こす。自分のいる場所、自分のいる世界、あらゆる境目がわからなくなっている。もっと、自分を知らなくてはいけない。もっともっと、答えを求めずに、自分を知らなくては・・・。

ここではあまり社会的な事件には触れないようにしているのだけれど。この事件に関しては、とにかくわからないことが多すぎて、今回は少しだけ触れてみることにした。
  なにが、どうして、そうなったのか、考えれば考えるほど、こちらの頭の中もわけがわからなくなる。
  なんとなく辿り着いた先は、現実に挫折した青年が、ネットの中という仮想の世界で自己主張をはじめ、なにか伝説のようなものを創るために、現実の人々を巻き込んでしまった、とても幼稚な犯罪というところだろうか。今のところは、そんな感じがする。もちろん、また二、三日したら考えが変わっているかも知れないけれど・・・。

仮想の世界の感覚を現実に持ち込み、ゲーム感覚で人を殺す。犯人は、高校入学後、思い通りにいかない自らの境遇に嫌気が差したことや、リストラを進める派遣先への不満などを話しているという。冗談じゃない、人生なんてそんなことの繰り返しだ。彼の想像する人生っていうやつは、何一つ苦労のない、バラ色の人生だったりするのだろうか。

「どうするかまでは考えていなかった」と事件後のことに関しては、まったく考えていないのも気にかかる。人生の終わりは「死」であるけれど、彼の場合、遺書なども見つかっていなくて、自殺する意思もなかったという。ということは、彼のゲームの終わりは「死」ではないことになる。「死」で終わらないのであれば、どうしたかったのだろうか。事前に殺傷能力の高いナイフを購入したり、歩行者天国に合わせて計画を実行に移したり、行動はある意味計画的なのに、ゲームの終わりまでは想像できていない。全てのバランスが悲しいくらいに悪い。せめて、ゲームの終わりまでしっかり想像できていたならば、犯行に及ぶことはなかったのでは・・・。

とにかく事件は起こってしまった。
  そして多くの命が奪われた。
  もっともっと、いろんなことを考えよう。
  自分のために、他人のために、明日のために。

2008年6月8日、日曜日の秋葉原。
  一人の若者が、トラックで5人をはね、その後12人をナイフで殺傷。
  その間、約2分。



2008.6.22 掲載

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