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第146回  笑いながら死なせてくれそうな、春風亭昇太


前回に引き続き落語の話をもう少し。

またまた新宿末広亭で落語を聴いた。第十九回三派連合落語サミット。落語協会、落語芸術協会に加え、ふだん寄席に上がらない立川流や上方落語の面々も出演する。
  これは見ないわけにはいかない、と朝早くから末広亭に足を運んだ。
  開場30分前だというのに、すでにチケット売り場に並んだ列は軽く百人を超えている。平日の昼間にこんなに落語を聴こうとしている人たちがいるのかと、落語ブームを再認識。

今日のお目当ては、今や人気者の春風亭昇太。実はつい最近まで昇太にはほとんど興味がなかった。もともと若手の人気芸人にはあまり興味がない。人家が先行して、大して面白くないという先入観があったからだ。昇太にしても、テレビで見かけるたびに、あぁ、よく喋るうるさい人だなぁ…、この人は幼少の頃きっとクラスの人気者だったのだろうなぁ…あまり好きなタイプじゃないなぁ…っと、それぐらいにしか見ていなかった。
  もちろん、いろいろな方が彼を平成の爆笑王と称する、賞賛の記事はたくさん目にしてきた。そのたびにテレビで見るうるさい噺家のイメージが先行して、どんどん昇太を避けるようになり、食わず嫌いでいたのだ。

それが今年の初め、たまたまチケットが手に入ったので独演会に行ったら、これがもう面白いのなんの、思いっきり笑い転げ、それでもって聴いた後に拡がるサッパリ感。落語を聴いてこんな気持ちになったのは初めてだった。それからはもう昇太にぞっこん。
  その理由を箇条書きにしてみる。


1.出囃子がディビー・クロケット。
  まずこれが実にいい。情緒のある和物の出囃子ではなく、洋物。それを三味線で弾くから憎い。和と洋が相俟って、実にさりげない情緒を醸し出している。抜群の選曲。僕は、ディズニーランドは好きじゃないけれど、ベアージャンボリーでクマさんが歌うディビー・クロケットだけは好きだった。出囃子にこれを選ぶだけで彼のセンスの良さが伺える。
  これは演劇でも言えるのだけれど、選曲がよくない芝居はつまらない。基本的に落語は演劇ではないので、あまり選曲に驚くことはないのだけれど、三味線のディビー・クロケットは、落語をポップに表現する彼の在り方を象徴していて素敵だった。昇太以外では、立川志の輔の独演会の幕引きでかかった憂歌団の曲も印象に残っているけれど、ちょっと落語と離れすぎていたのと、狙いすぎで気取った感じが多少あったので、あくまでもサラリとした曲の使い方の昇太に軍配。

2.声。
  なんだろう、ほんとうにうるさいと思っていたその声が、一度気に入ってしまうと、優しくて心地よくなってしまうから不思議だ。けして良声ではないのに癖になる声質で、懐かしいやんちゃ坊やの感じがする。

3.顔。
  その真ん中にでんと居座る鼻はあきらかに太めの↓印。本人はかなりのコンプレックスがあると思うのだけれど、それが噺家としての個性となって確立している。コンプレックスを堂々とさらけ出していて気持ちがいい。見方によっては奇妙に見える容姿を武器にしている。

4.決して個性をごり押ししない。
  それは、笑いの多い「ちょっといいエッセイ」を読んでいる感じ。ウッディ・アレンの映画を見ている気分に近い。

5.子ども。
  噺に入るともう子どもそのもの。したがって、子どもを演じるのは上手い、あと老人や女性の描写もイヤミがなくていい。たぶん苦手とするのはやくざ者に代表される荒くれ男者などの役柄だと思うのだが、どうだろうか。

6.業や狂気や黒い部分が前面に出てこない。
  落語界という閉鎖的で魑魅魍魎のいる世界に身を置いているにもかかわらず、業や狂気をうまくオブラートに包んでいる。立川流の噺家さんなんかは大体において黒い部分が前面に出てしまうことがおおい(これはこれで好きなのだけれど…)。しかし、昇太はあっさりしている。これが役者となるとそうはいかない。まず黒い部分が目につくし、鼻につく。もちろん、そうでない役者もいるけれど、そう言う役者は芝居が上手くない。でも昇太は実に上手い。演者としてこの部分が本当に凄いと思う。

7.誰からもバカにされがちだけれど、誰からも嫌われない術をもっている感じがする。
  これと同じようなことが言えるのが漫才師のおぎやはぎの矢作だが、矢作がダウン系なのに対し、昇太はアップ系。アップ系でこの立ち位置はあまりいないと思う。


僕は、もともと人気者は好きじゃないけれど、それでも春風亭昇太はいいので取り上げてみた。落ち込んだときは昇太を聴けば、後味さっぱり元気になれる。チケットは中々取れないけれど、ネットでこまめに調べればポコンと空席があったりするから、未体験の方は是非。


なんだか昇太の話ばかりになってきたけれど、もう少し。

中村智志著「大いなる看取り」の中にミュージック・サナトロジー(音楽死生観)というものが出てきた。音楽によって、死を受け入れる準備の手助けをするものらしい。昇太サナトロジーまたは落語サナトロジーというものもあってもいいと思う。僕は昇太を聴きながら死ねたら幸せだと思う。なんだか知らないが、彼の落語は笑いながら死なせてくれそうなのだ。笑いながら死ぬのは、傍目には壮絶かもしれないけれど、素晴らしいことだと思う。

「大いなる看取り」は、山谷のホスピスを取材したノンフィクション。山本雅基さん夫妻が建てた「きぼうの家」に住む人々のそれぞれの最期の様子を追っている。
  看取る人と看取られる人。ここにいる多くの人たちは、家族に看取られることなく亡くなっていく。誤解を覚悟で言えば、「大いなる看取り」を読んで思うのは、僕は誰にも看取られたくないということ。こういうことを書くと、それは看取ってくれる家族がいるからそういうのだと、多くの人は思うだろうけれど、そうではなくて、僕は家族や愛する人々に見守られてしまうと、どうも「生」に未練が生じてしまう気がするから。
  ああ、こんなに素敵な人たちのいるこの世を後にするのはとても苦しい、もっと生きたい、そう思いながら死んでいくのは、それはそれでかなり辛い。それよりは、ひとりで、もしくは見知らぬ人たちの前で、静かに死を受け入れながら死んでいく方が自分としては素直に死に臨める気がするの。まぁ、その時になってみないとわからないけれど、今はそう思っている。

昇太の話に戻るけれど、昇太と映画評論家の町山智浩が似ていると思うのは僕だけだろうか。
  これは映画監督の大林宣彦と元西武ライオンズ監督の森祇晶が似ているのと近い。この二人の喋りを聴いているとどこか共通点がある。人に言わせると、似ているのはメガネだけじゃないと言われるけれど、もっと根源的な、虚無感とか、人の持つ儚さとかそういうところが僕の心をくすぐる。あと、どうも二人とも生き急いでいる感じがあって、それが潔くみえるのかもしれない。表現の世界で潔いのは美しいけれど、実生活では危なっかしくもある。二人ともいつまでもタフに生き続けてほしいと思う。

では、今回はこの辺で。


2010.4.30 掲載

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