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第147回  今になって再認識したアラン・ドロンと谷川俊太郎


今年の二月からTOHOシネマズで「午前十時の映画祭」なるものが一年にわたって開催されている。「何度見てもすごい50本」として、「戦場にかける橋」「ワイルドバンチ」「アメリカの夜」「フォロー・ミー」等々、不朽の名作たちを毎朝十時からの一回だけ、週替わりで上映している。映画好きとしてはたまらない企画だ。

学生時分に見た映画が巨大スクリーンで見られるのはこれで最後かもしれないと、その日はアラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」を見にいった。もちろん十代のころに見たことのある映画で(すでに名画座での上映ではあったが)、個人的にも好きな映画ではあったけど、あらためて見返して、あれ、こんなに面白い映画だったかなぁと、その出来の良さに感心した。
  まさに映画力という謎の力がそこにあって、観客を作品の中にスムーズに引き込んでくれる。こういった感覚の映画は、今の映画にははっきりいってない。

今の映画はあくまでも技術やテクニックを駆使して、力業で強引に物語の中に引きずり込む。これでは強姦だ。それに引きかえ昔の映画は、見ている者を優しく虚構の世界に導いてくれた。作品が見ている者の情緒に静かに語りかけてくれたのだ。
  いつのまにかそういう目に見えないものが、映画の中から消えてしまった。それに比例して、人間の心理の深さを描ける監督も俳優も随分と減った。今の映画は、虚構の中に演技をしている有名人しか居ない。

しかし昔は映画の中に人間くさい人間たちがいた。今回「太陽がいっぱい」を再見して、俳優アラン・ドロンの素晴らしさにあらためて出会った。その存在感は圧倒的で、たったひとりで映画全体を引っ張っていく。
  中学・高校のころ、アラン・ドロンは世界的な大スターだった。彼の映画は決まってヒットを飛ばし、公開初日は若い女の子の行列が映画館を包囲し、世界中の女の子が彼の甘いマスクに魅了された。「地下室のメロディー」「あの胸にもう一度」「シシリアン」「ビッグガン」等々、彼の映画はたくさん見たにもかかわらず、どうせ美しい顔だけで演技しているのだろうというひねくれた考えから、僕にとってはあまり好ましい俳優ではなかった。では、なぜ彼の映画を当時見続けていたのか。当時はまったく意識していなかったけれど、それが今回はっきりした。

まず、彼の演技。演技の奥深さを知らなかったころはわからなかったけれど、今見ると、それはとても緻密に計算されていて、それでいて決して崩れることのないしっかりした核のある演技だった。
  役者というのは、一つの作品の中で、何度か演技が崩れることがあるのだけれど、彼の演技はほぼ完璧で、それこそ完全犯罪と呼ぶにふさわしいほど役づくりに隙がない。それは美しい演技とよんでいいと思う。

それに加えて、生まれ持った儚さ。それが加味されることによって、表現に奥行きが出て、人生の哀愁というものが彼の内側から滲みだしてくる。だから、映画の中で、いくら金と美女を手に入れてもちっとも幸せに見えない。何をしても幸せになれない、不幸を背負ってしまった男がそこに居る。それがスクリーンを通して、見ているこちらにチクチクと突き刺さって来る。
  痛い痛い。痛々しい俳優。こんな俳優、日本はもちろんのこと、世界中探しても数えるほどしかいない。とくに大スターと呼ばれる人間の中では皆無と言ってもいいだろう。

アラン・ドロンを語るとき必ず出るのが、闇社会との繋がりと同性愛疑惑。表現の世界に付きものの話題。とくに映画やテレビの世界は魑魅魍魎の住む世界、どんな人間がいようとかまわない。いや、そういう人たちが居ないとつまらない世界でもある。俳優だから闇社会に足が向くのか、それとも闇社会が俳優を取り込むのか、俳優だから同性愛に走るのか、同性愛者だから俳優になるのか。それはわからないし、どうでもいい。彼がどうであろうと、実際に人並み外れた表現をするのだから、素晴らしいの一言に尽きる。

きっと彼は、映画の中の世界に住んでいるときがいちばん心が落ちつけたのではないだろうか。彼は演技に対し尋常でない集中力を発揮することで現実を忘れ、完璧に演技することによって自分が落ちつける世界に敬意を表し、同時に現実の己にバカヤロウと呟いていたのではないだろうか…。孤独な人だ。

表現の世界なんて、本来孤独な人間だけが生きることのできる世界と僕は思っている。それなのに、今は孤独でもなんでもない人間がとっかえひっかえ表現の世界に流れてくるものだから、わけのわからない事になってしまっている。
  これでは作品の質も、役者の質も落ちて当たり前。だから、今の映画に胸躍るような興奮を覚えることがなくなり、昔の映画を見て懐かしんだりホッとしたりしている僕のような人間が出てくる。

ああ、いやだいやだ。しかし、この歳になってアラン・ドロンの凄さに気づくことができたのだから、それはそれでよしとしようか。当時わからなかった彼の孤独が、今はなんとなくわかる気がするのだから。たぶん僕は人間の「孤独」を見学しに、彼の映画を上映する映画館に足繁く通っていたのだ。
  しばらくは彼の映画をレンタルショップで探すことになりそうだ。でも、今のレンタルショップに彼の作品はいったいいくつ置いてあるのだろうか…。
  ちなみに、「太陽がいっぱい」の日本公演は1960年。僕の生まれた歳だった。


アラン・ドロンから話とはかなりズレるけど、谷川俊太郎という詩人がいる。二十歳前後のころ、仲の良かった女性から薦められて、彼の作品のいくつかを読んだことがあった。
  破滅的な人間が好きだった僕には、彼の知性に溢れた上質の言葉の並べ方はどうも好きになれなかった。その後も、何度か彼の本に出くわすことがあったけれど、手に取って読み始めては、その整理された丁寧な言葉遣いに居心地悪さを感じ、最期まで読み切ることなく途中で投げ出していた。
  それが先日、本屋で文庫本を物色していたとき、作者を確認せずに読み始めた一冊の本が、谷川俊太郎の「ひとり暮らし」だった。偶然開いたページに、次の一文があった。

結婚式よりも葬式のほうが好きだ。葬式には未来がなくて過去しかないから気楽である。結婚式には過去がなく未来ばかりがあるから、気の休まるひまがない。老いのいいところは、少しずつではあるが自分が社会から免責されていくような気分になれるところだ。もうそんなに人さまのお役に立てなくてもいい、好きに残りの人生を楽しんでいいと思えるのは老人の特権だが、それを苦痛に思う人もいるだろう。ひとりぼっちを受け入れることにつながるのだから、他人に求められなくとも、自分のうちから湧いてくる生きる歓びをどこまでもっていられるか、それが私にとっての老いの課題かもしれない。どうせなら陽気に老いたい。(谷川俊太郎「ひとり暮らし」より)

以前、清春の美術館に行ったことがあった。そこにはルオーが作ったキリスト像が飾られた小さな礼拝堂があって、教会好きな僕の当時のお気に入りの場所だった。美術館の中には品のいいオープンカフェがある。そこでは結婚式のパーティーかなんかが行われていて、黒い牧師風の服を着た谷川氏がスピーチを述べていた。二人の門出を祝し、上品な言葉を並べ、静かな谷川ワールドを創っていくその姿に、なんだか大人の嘘みたいなものを感じ、ルオーの礼拝堂にひとり逃げ込み、我が身を守った。
  そんなことがあったから、
 「結婚式には過去がなく未来ばかりがあるから、気の休まるひまがない。」
  のところを読んだとき、ああ、あの日の谷川氏はずいぶんと無理をしていたのかもしれないなぁ、と数十年の時を経てあらためて思った。

歳をとらないとわからないことが世の中にはたくさんある。アラン・ドロンも谷川俊太郎も生き続けていないと彼らのことは再認識できなかった。
  僕は昔を懐かしむことはあまりしないのだけれど、最近よく昔を思い出す。それは懐かしむことではなく、記憶を辿っているのに過ぎないのだけれど、もしかしたら本当は懐かしんでいるのかもしれない。

十河進の「映画がなけりゃい生きていけない」の中にアーウィン・ショーの「ビザンチウムの夜」に次の一節が出てきた。

かっての栄光を懐かしむのはいい。それをよすがに生きていくのもいい。だが、どんなにみじめになっても、生きていかなければならない。さびしさに耐えなければならない。人のせいにするな。すべては自分の選択だ。自ら招いたものだ。それを引き受けて生きてゆけ。自分が誇りだけは失っていないという実感を持てれば、他人が何を言おうが、後ろ指を指そうが、嘲笑おうが…放っておけ。

…そうか、放っておこう…。
  今回はこの辺で。


2010.5.31 掲載

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