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精神障害者の犯罪に関する法学系学生との対話
(龍谷大学特別講義)


平成19年1月24日
矢野 啓司
矢野 千恵

矢野真木人は平成17年12月6日に殺害されました。1年後の平成18年12月20日に私たちは京都市の龍谷大学で「犯罪被害者学」の講座に参加して特別講義を行いました。この講義は私たちが参加している全国被害者の会(あすの会)の関西集会に大学から依頼があり、私たちは会から推薦を受けて講義をしました。講義の時間は90分で、最初に30分矢野啓司から「矢野真木人殺人事件の概要」を報告しました。中間の30分を矢野千恵が「息子を殺人された親が直面する悲嘆の問題」について話しました。最後の30分間は矢野啓司が「刑法第39条と精神障害者の刑罰と日本の人権」の問題について話しました。

龍谷大学は仏教系の大学です。我が家の菩提寺の住職も龍谷大学で仏教学を学んでいます。それで、私たちは聴講生のほとんどは将来僧籍に就くものと考えていましたが、講義の最初に学生に将来僧籍になる者について挙手を求めたところ、2〜3人でした。講座を聴講した大多数の学生は法学部および社会福祉学部の専攻でした。聴講した学生は100人余でしたが、その内68名から講義聴取後のミニレポートが大学を通じて提出されました。各感想文は400字から1000字程度であり、大学側の配慮により全員の個人名と性別および専攻科目は伏せられてありました。提出された感想文を読む限り半数から5分の3程度の学生が法学部であると推察されます。

1、矢野真木人殺人事件の知識

矢野真木人が殺害された事件があったことに関して多くの学生が「まるで知らなかった」と書いており、事前に事件を知っていたと書いた学生はおりませんでした。事件は四国内特に香川県と高知県では割合頻繁に報道されましたが、四国内でも愛媛県や徳島県ではほとんど報道されませんでした。このためか京都市周辺に居住する学生には事件について予備知識がほとんどありませんでした。学生の中には「わずか1年前の新しい事件で驚いた、知らなかった」と書いた者がいたほどです。

矢野真木人殺人事件では犯人の野津純一は犯行の翌日に逮捕されました。犯行当日の12月6日には犯人が全く不明な「通り魔殺人事件」でしたが、何故かその報道は主として香川県と高知県に限られていました。通常このような異常な事件があれば、全国レベルの報道になると思われます。事件の数週間前には広島で外国人による幼児殺害事件があり、1週間前には茨城県で女子小学生の行方不明事件がありました。矢野真木人殺人事件の報道はこれらの報道に隠れた小さな取り扱いでした。野津純一が未だ逮捕されてない、当日の夕刊と翌日の朝刊の報道では「友人関係のもつれではないか」という憶測記事もありましたが、その報道ぶりはもしかしたら意図的に抑制されたものであった可能性があります。

矢野真木人が28歳の成人男性であったためにローカルニュースに留まったのか、それとも、殺人事件としては普通の取り扱いであり、報道抑制の要素は全くなかったのかは知り得るところではありません。事件の態様および近隣に精神科のいわき病院があることから、万一の精神障害者による犯罪の可能性を考えた抑制であったのではないかという疑問は、報道関係の外にいる者としては憶測の域を出ないことです。いずれにしても野津純一が逮捕された直後に全国放送をしたのはテレビ朝日の報道ステーションが逮捕場面を報道した一回きりでした。その後は、刑事裁判の判決が確定するまでは、全国放送は一回もありませんでした。また、全国レベルの週刊誌や月刊誌の中には事件に興味を持つところがありましたが、直接編集者から言われましたが「精神障害者の事件を報道すると、後々、訴訟をされる可能性があり面倒なことになると困る」と腰が引けていました。

2、マスコミの精神障害者に関する報道

マスコミ報道の対応ぶりについて何らかの言及をした学生は68名中17名で丁度4分の1でした。その中で一人の学生は明確に「精神障害者の犯罪が報道されないことは仕方がないことだと思います」と述べていました。「精神障害は本人がなろうとしてなったものではなく、その家族も報道されることで周囲から邪険にされたりするでしょう。遺族感情としては報道してもらいたいのは最もだと思いますが、自分としては加害者の家族を優先にしてもらいたいのです。」と言うこの学生の主張に従えば、◎報道の自主規制は認められる、そして◎精神障害者が関与する事件では加害者の家族が優先される、となります。

これに対して、他の16人の学生は、被害者の実体がわからない、もっと報道すべきだ、報道に偏りがある、などの意見を寄せていました。中に「精神障害者の関わる犯罪の報道規制は日本の国の情報操作そのものではないだろうか。報道やマスメディアの影響力は大変大きなもので、ゆがんだ真実を伝えることで差別や偏見を生み出すことになる。」と指摘した学生がいました。また、「一番大切なことは、精神障害者のことをもっと多くの人が知る必要があると考える。そうすれば、精神障害者だから仕方がないなど、わからずに思ってしまうことも無いだろう。被害者の家族も周囲の人が理解してくれるだけでも気持ちが変わるだろう。」と書いた学生もいました。

「精神障害者の事件は報道すべきでない」と書いた学生は、本人が書いた文章から読み取る限り「家族内に精神障害者を抱えている方ではない」と推察されます。すなわち、精神障害者の身内としての拒否反応ではなく、一般的な報道のあり方として「社会的弱者が加害者である犯罪は報道するべきではない」と主張しているようです。また全ての精神障害者は自ら犯した犯罪の原因を自らの責任に帰すべきでないと想定しています。この人の主張に従って、個人の問題に限定するとしても、報道機関が精神障害者が犯罪加害者である場合には報道するべきではないとすると、健常者は常にどのような場合でも社会的強者とされます。しかし矢野真木人と野津純一の1対1の関係では、野津純一は一突きで矢野真木人を刺殺しました。明白に野津純一は強者であったのです。身長は180センチを超える大男ですので、小柄な矢野真木人より強靱な体力を持っていました。その場の状況判断の認識も危険が迫っていたことを何も知らず予想もしなかった矢野真木人より有利だったのです。すなわち、障害者個人としても同一人物が常に他者に対して社会的弱者であり続けるのではありません。野津純一との関係では矢野真木人は既に結果が出た弱者であり、矢野真木人本人にはそれを回復する手段は何も無いのです。なお学生が主張した、「精神障害者の事件は報道すべきでない」は現在の日本の現実であることを付記します。それは腰が引けた矢野真木人殺人事件の報道からも読み取れるところです。

個人の問題ではなくて社会に報道されるべきでない社会的弱者のグループが存在することは許されるのでしょうか。報道されることがないそのグループは秘密結社的な特権や特性を持つことになり得ます。大衆文化で民主主義の社会において「報道するべきでない」社会グループが存在することが果たして、健全な社会を築くことになるのか、疑問があります。社会的弱者と強者は相対的な関係です。また社会的弱者として社会からより優先された特別な公的庇護を受けるのでしたら、そのグループが社会的弱者である実体が客観的に社会の情報として共有され承認される必要があります。社会的弱者であることの実体や、それにより起こり得る現実が社会に知識として共有されることで、初めて社会から特別に擁護される理由が生まれるのではないでしょうか。社会的なメカニズムとしても、特別に有利な権利が生じると、それが長期間継続する場合には、その特別の権利があることが利権化して社会的な弊害がしばしば発生します。このような社会的な弊害を認識するにも、報道規制はあってはならないと考えます。日本には不健全な誰が規制の主体であるのかも不明な「自主規制」という障害があることが、報道の本質的な課題だと考えます。

3、マスコミによる二次被害

矢野真木人が殺害された後で私たちは「マスコミによる二次被害はほとんど感じなかった」と発言しました。私たちの場合もまったく無かったわけではなくて、事件直後には意図的で意地悪な質問も受けました。また、最初は報道を読んで「加害者側の視点に立った許せない報道」と思えた記事もありました。しかしその記事も内容を良く咀嚼すれば、被害者としては社会の通念として私たちが受けた精神障害者による殺人被害を見る眼がどの様な物であるかを認識させてくれる報道でした。従って、記事の内容が自分たちの意に染まないからと言って、マスコミにより二次被害を受けたことにはならないのです。

マスコミによる二次被害の問題は犯罪被害者の集会に参加すると必ずと言って「ひどいマスコミ被害を受けた」と主張する犯罪被害者がたくさん存在しますので、大きな問題ではないとは言えません。また私たちも経験しましたが、被害を受けた直後の精神が動揺している時に集中的な取材を受けますので、その場の感情がずれるとそれだけ、マスコミによる二次被害があったと拡大されて認識する可能性があります。しかし私どもは聴講した学生に対して「仮に、あなた方の誰かが将来何らかの事件に巻き込まれるような事があるとしても、二次被害を恐れて口をつぐんではいけません。積極的に発言してこそ、被害者としての自分の立場を世の中に知ってもらえます。もし、私たちが精神障害者からの被害であるからとして、口をつぐんで泣き崩れていたとしたら、刑事裁判で懲役25年の判決が出ることはあり得ませんでした。被害者としてマスコミに協力したからこそ、画期的な判決を得たのです。」と発言しました。

学生からの反応には「どんな凶悪事件でも被害者が取り上げられるのは一瞬です。それは被害者の側が報道陣の追求から逃れたかったり、一刻も早く事件を忘れたいと思う一心からそうしている、もしくはそうせざるを得ないことなのかも知れません。ですがこれでは事件が報道されなくなって、世間から忘れられてしまうことになり、被害者も忘れさられてしまう結果になり、被害者はいつまでたっても救われることはありません。」という意見がありました。また「メディアを媒体にし、課題として社会に呼びかけてゆくという(矢野夫妻の)姿勢には驚いた。」という意見と「お二人の話を聞いていて、報道には二次被害をもたらす一方で事件の真相を明らかにするために役立つメリットがあると知りました。このメリットとデメリットについて、どう解決を図っていくかが、犯罪被害者の救済にも関わってくるのではないかと思いました。」という指摘もありました。更に「『事件をうやむやにしないために、中途半端に和解しないために』マスコミの取材を積極的に受け、民事訴訟を続けているという話をされましたが、なんて心の強い方なのだろうと私は思いました。」という意見と共に「私は一番大切な事は、精神障害者のことをもっと多くの人が知る必要があると考える。そうすれば、精神障害者だから仕方がないなどわからずに思ってしまう事も無いだろう。」と言うご意見をいただいたことも付け加えます。

4、犯罪被害者になることについて

私たちが学生に伝えたことは「矢野真木人が殺されたような通り魔殺人事件の場合には、犯罪被害者になることは予め予想できない。事件が起きた事を知った時には、既にいかなる事後の対応策も取れなくなってからです。このような被害は誰にでも起こり得ることで、事前に用心して防止することはできません。犯罪被害者の会に参加すると、誰もが同じように『ある日突然、悲惨な事件の被害者となった』と言って苦しんでいます。いつ誰にその様な悲劇が襲ってくるかは予想できません。残念ながら、社会の中では必ずそのような悲劇は繰り返し発生します。それは避けられません。」と言うことでした。

学生の反応は「矢野真木人さんは、本当に死ぬ必要のない人だとつくづく思います。只でさえ、不運な通り魔殺人なのに、よりによって精神病患者です。言っていくところがありません。真木人さんの『死に損』もいいとこです。」という意見と共に「法律を学び、それに忠実であろうとするほど、精神障害者に刑事罰を科すことは難しくなるのです。どの参考書を見ても『刑事罰は国家に対する償いであり、被害者のためではあり得ない』ことが明記されているのです。・・・やはり現状はおかしいのでしょうか、一度深く考える必要がありそうです。」という意見もありました。また「精神障害者の犯罪は罪に問うことができないということが被害者の遺族を苦しめる大きな要因となっていた。・・、その被害者の苦しみを私は今まで考えたことが無かった。」と現行の法律制度および考え方に対する疑問を特に法学系の学生に呼び起こすことになったようです。

法学系ではないと思われる学生からは「もし、自分の家族を精神科患者に殺され罪を問うことができなかったが、数年後には社会復帰しているとしたら私は耐えられるだろうか。無理だと思います。」という意見や「被害者とは、実際に被害を受けた人だけではないことを痛感しました。そしてお二人の取り組みには驚きました。自分の大切な人が殺害される苦しみや、犯人を罪に問えない苦しみは誰もが経験することはできないし、私にはとても理解できません。」という意見もありました。またある学生からは「私も100円ショップでアルバイトをしていますが、品数と安さのため包丁や鎌や金槌など危険を伴うものも簡単に手に入ってしまうことに問題があるのではないかとも思えます。」という指摘もありました。更に自傷他害の心理的要素について、日常の心の変動で、普通人でも他人に危害を加える心が生じる可能性に言及した学生もおりました。現代社会では被害者になることも加害者になることも、それ程距離が離れたことではないことかも知れません。

5、野津純一に関して

私たちが野津純一を通り魔殺人事件の犯人として人物像を紹介しましたので、学生の中には「凶悪非道な人物」というイメージを抱いた方もいたようです。それは「このような危険人物を病院側が見逃したことにおいては、その人物に対して最善の注意を払う義務があったと考えるから、責任はあったと思う。」という指摘に現れています。野津純一は普通の精神障害者です。しかし彼は「反社会性人格障害」と「慢性鑑定不能型統合失調症」が刑事裁判で認定されており、精神障害者である上に社会に害をする行動を意図して行う人間でもあるのです。彼に対しては「殺人事件の加害者は命の重みを知らないのか。『だれでもいいから殺してやろう』この身勝手なフレーズにとても怒りを感じる。殺人事件の被害者は誰もが矢野さん夫妻の様に精神的に強いとは限らない。加害者を殺したいほどの苛立ちを我慢している被害者も少なくないと思う。」という意見もありました。このように野津純一の行動に批判的で懲役25年の判決が確定したことを画期的と評価する意見が大勢を占めていました。

さすがは法学部と思える、反論もありました。「刑法39条の可否は別にしても、現実にその時点で心神喪失者・心神耗弱者である人間を、正常な意思能力を有する人間と同じ基準で裁くことに問題があることもまた事実です。矢野さんは、現在の医療技術水準の進歩を考えると、心神喪失・耗弱はもはや不治のものではないから、刑法第39条は問題であるとしていましたが、治療が可能だからと言って実際に心神喪失・耗弱している者を裁くことは『将来は大人に成長するから』といって意思能力を有しない幼児を裁くのと同じ事ではないでしょうか。」という指摘です。また「精神障害者に懲役25年など厳罰を与えて効果はあるか。むしろ害が出るのではないか。精神病が治りやすくなっていると言うのなら、なおさら医療施設に収監すべきではないだろうかと感じました。(矢野さんは)被害者となって本当に懲役25年についてどう考えるかを知りたかったです。」この他にも「精神に障害を持っていた今回の場合、自分のしたことに自覚があったからまだ(懲役25年の刑罰に)納得できる。しかしほんとに自覚がない場合、本人に犯罪行為があったと認めるのは酷のような気がする。どちらかと言えば、本人よりも、周りの環境(病院)に大きな責任が存在するのだから。」などという指摘がありました。

私たちは「野津純一にも、完全な治療を病院から受けられなかったという側面で、被害者である、という側面がある」と発言しました。このことに関して「矢野さんの話は驚くばかりでした。・・、裁判の際、野津純一の両親に対し、野津純一も被害者の要素があり、病院を相手に戦ってほしいと言ったということを知り・・」とか「事件は1年前のことで、こんな最近のことを学生の前で話してくれる矢野さんの真意は何だろうと、まず思いました。話を聞くうち、犯人にも被害者の要素があり、病院を相手に戦う姿勢をとる矢野さんは精神力が強いと感じました。」という意見がありました。おおむね多数の学生は私たち夫婦が強い精神力を持っているという感想を持ったようです。また「犯人にも被害者の要素がある」と公言していることに驚きの意見を示していました。また私どもの意見に賛同して「刑法第39条について、現在の医学の状況を全く考えていないおかしな法律が今も適用されていることに疑問を抱いた。薬を飲み適切な治療をしていれば精神障害者であっても犯罪を起こすことが無い人は沢山いる。その中でこのような事件を起こしたにもかかわらず、法で守られるというのは本当に人権を擁護していると言えるのだろうか。」という意見もありました。

今回の聴衆の多くは法学部の学生ですので、「慢性鑑定不能型統合失調症と診断された重篤な精神障害者である野津純一に懲役25年の刑罰が確定した」と私たちが裁判で確定した事実として伝えたことにとまどいを覚えたようです。このために「刑法第39条が全面的に否定された」と誤解した学生や「自分がした事を認識できない人間に懲役25年が確定した」と勘違いした学生もいました。更には「精神障害者に懲役25年など厳罰を与えて効果はあるか」という疑問も提出されました。この学生は「医療施設に収監すべき」とまで言い切っています。また「矢野さんは)被害者となって本当に懲役25年についてどう考えるかを知りたかった」という質問も受けました。

懲役25年の刑罰が確定したことに関して、野津純一には「だれでも良いから殺そうと思った」という事前の殺意があり、凶器の購入を自分自身の意志でしかも正確な金銭の授受という社会的な決まり事を守って購入しております。更に「だれでも良いから」とは言え、病院内で騒ぐ事やショッピングセンター内で無差別に殺人する事などを自制して、駐車場内を歩いて20代後半の男性を物色しました。殺害後は警察の逮捕を恐れて隠れていました。このように、計画性と事理弁識能力が明白である人間に、統合失調症の診断があるとして、心神喪失を自動的に認めるのは、法律適用の間違いです。すなわち、これまで日本で「重い統合失調症の患者は心神喪失者である」として取り扱っていたことが間違いなのです。野津純一は自分がしたことを認識できない人間ではありません。また野津純一に懲役25年が確定したことは、刑法第39条が否定されたことでもありません。

学生が指摘した「医療施設に収監すべき」について「野津純一は殺人犯罪者として医療刑務所に収監されて精神障害を治療されるべき」と考えます。学生は「刑法第39条では心神喪失を適用して無罪として、その代わり心神喪失者等医療措置法を適用して数年間の措置入院させる事が適当である」と考えていると推察します。しかしここで持ってもらいたいのは「現在時点および犯行時点で、重い統合失調症の患者であるが心神喪失でない者を刑法第39条を適用して心神喪失者として認めることは違法である」という認識です。「心神が失われてもいない者に心神喪失を適用することは、不必要な法律の拡大解釈」です。その拡大解釈の慣行が日本では成立していたこと“そのこと”が問題なのです。法律の解釈と適用が安易に過ぎていたと考えます。また、精神障害の治療を理由にして刑罰を軽減もしくは科さないと言う論理はおかしいのです。治療と刑罰を代替する事はできません。

過去の犯行時点で心神喪失であったか否かの問題は本来証明不可能です。なぜならば、必ず事後から過去に遡って、犯行時点で現場を目撃していない精神鑑定者が犯人を問診して鑑定するからです。犯罪者に作為があればあるほど心神喪失の状態に見せるような詐病を偽装する可能性が高くなります。加害者の意図が関与している可能性が高い中で、本来証明不可能な事を鑑定可能と仮定しているのです。ここに論理的な矛盾があります。その上で、現在の医学では薬をきちんと飲んでいれば、ほぼ確実に心神喪失状態に陥らないように管理可能です。重い統合失調症の患者といえども、必ず事前に心神喪失でない状態で、医師や薬剤師から薬物療法の指導を受けています。すなわち、心神喪失の状態に至るには薬管理のミスという、本人もしくは医療機関の過失の要素があります。これが現在の医療水準です。このような状況ですので「心神喪失に至ることにも本人もしくは病院の責任が伴う」と考えるべきでしょう。従って、仮に犯行当時に心神喪失であったとしても、本人には「いたずらに心神喪失の状態に至った」という過失責任があり得ます。

「(矢野さんは)被害者となって本当に懲役25年についてどう考えるかを知りたかった」という質問ですが、学生は「治療のためには刑罰を科さない方が良い」と言いたいのではないかと考えます。これに対して、私たちは「刑罰が確定して良かった」と素直に考えています。理由は仮に「心神喪失無罪」で心神喪失者等医療措置法で措置入院の処分にされた場合、野津純一は法的には「無罪の人間」となります。この場合、矢野真木人が殺害された責任を野津純一は法的に取らなくて良いことになります。そして法的に無罪である人間である野津純一の人権は保護されなければなりませんので、野津純一の個人情報は公権力の手で私たちの目に触れないところで厳しく管理されることになります。私たちは矢野真木人が死んだ様子や、何がいわき病院で起こっていたかなどの情報を全く知ることができなくなります。私たちが矢野真木人の死に関する真実を知ろうとする行為が、人権侵害として断罪される可能性も発生します。これでは民事裁判も戦えません。まるで情報も証拠もない中では、裁判を戦うことは、竹槍を持って重戦車と戦うようなものです。被害者の遺族が人命を失うに至った事実を知る権利が、加害者の治療のための罪を科さない処分と置換されることは、社会的正義なのでしょうか。それが人権を守ることなのでしょうか。

「精神障害者に懲役25年など厳罰を与えて効果はあるか。むしろ害が出るのではないか。」という指摘です。この指摘は犯人である野津純一個人の問題に限定して指摘していると思われますが、ここでも「精神障害者=心神喪失」という予断を持って議論しています。野津純一の場合に事理弁識能力が確認された上で「反社会性人格障害」が診断されました。反社会性人格障害というものは、心神喪失や心神耗弱で刑罰が科されないもしくは軽い刑罰で済むことで「殺人をしても罰せられない特権を得た」と誤解して、再び極悪非道な犯罪行為を犯すという人格の障害です。これまで精神障害者であることで安易に心神喪失が認められた人間が、繰り返して次の殺人行為を犯した事例は少なくありません。精神障害を持った犯罪者個人の問題としても「繰り返して犯罪行為を犯さなくて済む」という救済になります。「私は必ず次の殺人をします」と言いながら放置されて新たなる殺人行為をするような精神障害者も日本には現実の事例としてあります。しかしおかしいのです。「私は必ず次の殺人をします」という予見性の言葉の中に事理弁識能力が証明されています。またある学生は「刑事罰は国家に対する償いであり、被害者のためではあり得ない」と記述しました。「刑事罰は本来国家に対する償いである」であるのでしたら、社会的効用としての「犯罪抑止効果」を認定すべきでしょう。精神障害者であるとしても殺人犯人を野放しにすることは日本社会の公序良俗に反します。

「反社会性人格障害」について付加すれば、私たちが龍谷大学の特別講義で配布した資料にある「英国の事例」と「スペインの事例」(CAC医療技術専門学校における特別講義参照)にも書いてありますが、反社会性人格障害者は精神障害者として罪を軽減される対象としてはならないのです。英国とスペインでは「反社会性人格障害者は、他にどのように重篤な統合失調症の症状があったとしても刑罰が軽減される理由にはならず、反社会性人格障害で罪が重くなっても、罪が軽減されることはあり得ない」のです。これは「WHOやアメリカ精神医学協会が発行している精神障害の国際診断基準に該当すればほぼ自動的に刑法第39条の規定に該当し得る精神障害である」と認識されている日本の実体と異なる認識です。反社会性人格障害という精神障害はありますが、そのことを理由にして罪を軽減することはおかしいのです。だからこそ日本では同一の精神障害者による繰り返して行われる犯罪を防止できないのです。

6、いわき病院に対して

本文で香川県高松市のいわき病院に対する学生の感想を書くのは一方的であることは確かです。学生は私たちが説明した情報しか持ち得ておらず、また私たちが事件の概要を説明した直後にミニレポートを作成していますので、いわき病院に対して批判的になるのは仕方がない事です。このことも踏まえた上で本項をお読み下さい。

「一番疑問に思ったのはいわき病院のあり方でした。“え、ほんま病院なん?”と思うくらいずさんな管理だと感じました。精神障害者のいる病院なんて、他の病院以上にしっかりした管理ネットワークがあるものではないのですか? 今日の話を聞いていて、なんか裏切られたような気分でした。この病院は一から立て直した方がいいように思います。」また「どうせ保護するのなら、最後まで保護しなければいけないのです。日本はあまりにも責任を負わなさすぎだと思います。今回の事件もきちんと最後まで病院が保護しておれば起こらなかったことだと思います。あまりにもひどすぎることです。」という意見が寄せられましたが、これが一般的な学生の感想だと思われます。

私たちはいわき病院と民事裁判で戦っていますが、これに対して「現在も病院側に対して4億3000万円という賠償を民事裁判で戦われているなんてすごいという言葉しかでません。病院側の怠慢が明らかになって改善されればいいなと思いました。」という賛同がありました。私たちの民事裁判の本当の目的はこの賛同の言葉にあるように「病院が改善されればいい」という精神科病院の現在のあり方が抜本的に見直されて本来の意味で精神障害者の治療に貢献するために改善されることです。

法律家の視点として以下の指摘がありました。「今回の事件での被害者は二人いるように思われる。一人はもちろん殺害された矢野真木人氏だが、もう一人は加害者側の野津純一氏だ。しっかり病院側が監視し、そして病気を治療することに重きを置いておれば、このような事件は起こらなかったであろう。病院側はこの事態に対して深く反省して、罪の意識を持つべきだと思う。」このような視点が法学系と思われる学生の大半の反応でした。しかしただ一人から「病院に対する民事訴訟において不法行為における責任を負うかどうかを判断するに当たっては、故意又は過失の有無で決めれば良く、どの範囲で賠償の責任を負うかに関しては結果の発生に関して相当な範囲で決めるべきであり、事件当時仮に加害者の責任能力が回復していたのであれば、相対的に病院の責任が軽くなるべきである。民事訴訟はあくまでも原状回復が目的であり懲罰的であってはならないと思う。」というご指摘をいただきました。

どうも法学系の学生の中には、「刑事裁判でこれまでの判例とは一線を画した画期的な判例が出ました」というと「刑法39条は理念は正しい」と反応してそれから思考が停止してしまう方がいるようです。またこの反論者の場合には私どもが「4億3000万円を病院に請求しました」と言ったことで「懲罰的請求」と短絡したようです。確かに交通事故の賠償額の先例などを見れば、日本では被害者の職業に関わらず1億円程度であるそうです。しかしそもそも先例に固執していたら、野津純一に懲役25年の刑事判決が確定することは困難であるし、民事裁判で精神科病院を訴えることも困難だったのです。それは、私たちが講演で話した「日本中を股に掛けて弁護士を捜したが、ほとんどの方に『戦いにもならない』と拒否されたことに現れています。私たちは学生に、変化を受け入れる柔軟な思考を求めていたのです。学生には個別の事情を無視した一律の対応が持つ問題点や課題も考えてもらいたいと希望します。「あなたが持っている知識は人権や民主的な制度や理念を守る法律家の対応なのでしょうか」と、私たちは聞きたいのです。

私たちは、龍谷大学での講義資料で以下の質問を学生にしました。

日本の刑法第39条には以下のように記述されている
   1項 心神喪失者の行為は、罰しない。
   2項 心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する。
ある病院で精神障害で入院中の患者が、病院の社会復帰のための単独での外出訓練中に、見ず知らずの通行人を通り魔的犯行で殺害して、逮捕された。この場合、遺族が病院の責任をより大きく追及するには、以下のどの論理で、行動するのが適当か。

  1. 逮捕された犯人を、検察が心神喪失者であるとして不起訴にすれば、当局が犯人の心神喪失を認めたことになる。このことが当局からの裏付けとなるために、心神喪失者を単独で外出させた病院の責任は明白となり、それだけ過失責任が大きい。

  2. 犯人が心神喪失で不逮捕・不起訴もしくは無罪となると、殺人を犯した人間であるにも関わらず、犯人は無罪無垢の人間と見なされる。このため、殺人事件は無かったことと同じと見なされる。殺人罪が存在しないのだから、そもそも病院の過失責任は問えない。

  3. 犯人に厳罰が下されるということは、犯人の精神障害が軽微であったもしくは寛解していたと同じ事になる。従って、犯人に対する病院の治療の効果が上がっていたことになる。精神障害が治癒した正常人が犯罪を犯したことになるので、病院には責任がない。

  4. 犯人の罪状と、病院の過失責任は独立した問題であり、刑法第39条と病院の治療とは無関係である。しかし、実体として考えれば、通り魔殺人を犯した犯人は危険人物であったのであり、人間の心を治療する病院がそれを見逃したところに大きな責任がある。従って、犯人の罪状が重ければ重いほど、病院の責任も重大である。

学生の反論は上記の「3」の意見に沿ったものです。この論理は高松市のいわき病院と民事裁判における病院の代理人弁護士の論理でもあります。私たちも最初に矢野真木人が殺害された直後には実は「1」および「3」の論理にとらわれて、「いわき病院の責任を明確にするつもりであれば、殺人者の野津純一は刑法第39条が適用されて無罪でなければならない」と考えた時期がありました。しかしそれには2の論理という落とし穴があり、これまでの病院を相手にした民事裁判は成立しなかったのです。だからこそほとんど全ての弁護士が私たちを相手にしませんでした。現在持っている私たちの視点は「4」です。この論理は民事裁判で係争中の私たちの論理ですので、未だに確定したものではありません。しかし、これまでの民事裁判の過程で見えてきた範囲では、いわき病院には病院としてするべき医療や看護の過失や不作為を行っていた証拠が揃ってきました。このため私たちは学生が指摘した「いわき病院と野津純一の故意と過失責任の相殺」と言う考え方には納得しません。

「民事訴訟はあくまでも原状回復が目的」との指摘ですが、矢野真木人は全ての未来と可能性を絶たれたので、本来的な意味で原状回復はあり得ません。彼が平均余命の生命を全うするとしたら残すであろう資産と蓄積のごく一部分を利息を加算せずに私たちは請求しているのです。もちろん矢野真木人が築いたであろう家族やその子孫の分まで請求するのではありませんし、将来の経営者を失ってはるかに大きな打撃を受けた会社の損失までも請求したのではありません。被害者の視点から見れば抑制に抑制を重ねた請求を一言のもとに「懲罰的」と断罪されることに理不尽さを感じております。

更に申し上げれば、私たちは高松市のいわき病院が犯した医療ミスや社会的不正義および不作為などの問題は、一病院の問題に限らない、日本の精神医療が根元として抱える社会問題であると考えております。私たちは、日本の精神医療を改善して真に精神障害者の人権を回復することに貢献させることが最終の目的です。しかし、そのために私たちが世の中にくさびを打ち込める有効な手段を求めるとしたら、矢野真木人の命が理不尽に失われたことを根拠として民事訴訟で損害賠償の裁判を提訴するしか他に方法が無いのです。その前提として私たちは親として息子である矢野真木人の生命に値段を付けなければなりませんでした。これは私たちの心には大変むごい作業でした。他にもっと有効な方法があれば、私たちは親の手で自分の息子の命に値段など付けたくはありませんでした。

7、悲嘆について

私たち夫婦は講演の機会があるときには必ず二人で講演するようにしています。その理由は「被害者遺族が抱える悲嘆の問題」を聴衆に伝えたいからです。矢野啓司が「客観的な事実関係と刑法第39条に関わる問題点」、そして矢野千恵が「遺族が受けた心の衝撃」を話すことで役割分担をしています。以下に矢野千恵の言葉として悲嘆の心を示します。

真っ暗な世界に放り込まれ、世の中が私達だけを置いて回っていく気がしました。私達家族だけが悲惨を一身に背負い、孤立しているようでした。眠れず、食事も取れませんでした。おなかがすいて食べようとしても胃が受け付けませんでした。新聞もテレビも見られず、読まない新聞が積み上がっていきました。 「どうしてあの日、あの時、あの場所に息子が立つことになったのか」について、夫も私も、お互い相手を責めることはしませんでしたが、各々が自分を責めて苦しみました。「私が強固に反対していたらこんな目にはあわなかったのでは・・」「予定通り翌年4月から呼び戻すことにしていたら・・」毎日、「○○していたら」「△△しなかったら」が頭の中をグルグル回って、自分を責め続けるのでした。犯人が逮捕され、精神病患者である犯人を入院させていた病院主治医が悪いと考えている一方で、自分に罪があるように思いました。 押し寄せてくる絶望感、心の底にひっついた、黒い物が圧倒的な力で下へ下へと引っ張るのです。「どうしてあの子があちらの世界にいて、私はこちら側にいるのだろう」「向こうに行けばこの苦しみから逃れられる」自分自身がコントロール出来なくなりそうでした。 「一体これは何なのだ?」「私に取り付いて離れない物は何?」「生きていく気になれる日が再び来るのだろうか?」…ためていた新聞を少し読めるようになったころ、こんな疑問への答えが欲しくてアマゾンの本のリストを見て何冊か買い、初めてこれが『悲嘆』というものだと知りました。 単に悲しいというのとは違います。当初泣かなかったのは、生体の防御反応の一つで、脳を麻痺状態にし、直面している危機から生体を守ろうとする働きの為だったのです。愛する家族と死別後の一番やっかいな物は「罪悪感」です。「罪悪感と向き合う」というページは繰り返し繰り返し何度も読みました。 息子が死ぬまで、事件や事故、災難にあっても生きて帰れた人は幸せだと思っていました。107人が亡くなった昨年のJR事故やアウシュビッツの地獄から生還した人、神戸震災で生き残った人は幸せな人で、喜んでいるとばかり思っていました。これがとんでもない誤りだったことを今回知りました。20年前の日航機墜落事故で何百人もが亡くなり、たった4人の生存者の一人に、退院時に記者から「笑って」と声がかかりましたが、本人はとてもじゃないけど笑うなんてできなかっただろうと思います。

このように悲嘆が語られたことで、学生にとっては新しい発見があったようです。「今回、矢野啓司さんと矢野千恵さんの話を聞いて一番心に残ったのは矢野千恵さんの事件後の心情についてでした。この部分は裁判傍聴に行っても、授業で受けても分からない部分だったので、本人の口から生々と語られることにより、とても心に響きました。」という意見や「自分の子供を失う悲しみは計り知れないと思う。それが他人の手によって奪われたものであれば尚更だ。今の講義でそれがひしひしと伝わってきた。」さらに「被害者遺族の精神的な衝撃ははかりしれないものであって実際に経験をしてない者には想像を絶したものであると感じた。」など、多数の共感を呼び起こしました。女子学生と思われますが次のような意見がありました。「印象的だったのはお母様の死別の感情に際しての感情でした、ご自分が息子さんの死に際して、涙を流さないのは冷たいのではないかとか、自分が何か止めることが出来たのではないかという自責の念など、いろいろな感情を抱えられていたということをお聞きし、私もその様なご遺族の気持ちに配慮できる人でありたいと思いました。」このように、沢山の方から共感をいただきました。

一人の学生が講義の1年前に父親を亡くされており、私たちが抱える切実な問題に理解を示してくれました。「今回の講演は私自身としても他人事とは思えませんでした。実は私も昨年父を亡くしました。矢野さんと比べたら私の悲しみなど誰でも訪れる他愛のない事のように感じられますが、それでも家族を突然失った悲しみというのは残された遺族にとってどこも同じであるように思われます。他人から投げかけられるどんな同情の言葉も心に届かず、かえって傷ついてしまう心境というのは大切な人を失った事がなければ絶対に分からないでしょう。それでもやはり矢野さんの方が何倍もつらいと思います。『殺人』や『刑法39条』や『裁判の過程』などではありません。一人息子が突然に亡くなってしまったという事実です。私は今まで父から『○○家を継げるのはお前だけなんだ』と言われてきました。家を継ぐのは長男の宿命と言って良いでしょう。父のことは残念でしたが、○○家を絶やさずにすんだ事はご先祖様に申し訳が立ちます。だからこそ矢野さんの心中を慮ると、ただただこちらも無念で胸が痛くなります。」

8、精神障害者と刑法第39条に関して

精神障害者と刑法第39条が抱える問題は「5、野津純一に関して」と重複する問題ですが、本稿では可能な限り一般論として学生の指摘を元にして論じます。

一人の学生から次の指摘がありました。「僕らは精神障害者の犯罪というものに過剰に反応しがちであるが、実際には精神障害者が犯罪をおこなう確率と健常者が犯罪を犯す確率を比べてみれば、後者の方が断然多いことがわかる。」というものです。さて確率論を持ち出すと、実は犯罪統計は健常者も健常でない者も合算した数値がまず健常者の統計になります。その上で、精神障害者の統計を取る場合、実は精神障害者と定義される者の母集団が不確定なのです。検挙されて犯罪が確定した犯罪者の中に占める精神障害者数は正確です。しかし警察官が現場で精神障害者手帳などを持っていたので逮捕しないような事例があると実数が異なることになります。健常者は必ず逮捕されて統計に乗るのに、不逮捕者は統計の外に居るからです。このような意味で精神障害者が関わっている場合には犯罪者の実数も統計上は正確ではありません。また精神障害者の母集団も実は明確な定義があり得ません。精神科医師や心理コンサルタントに相談をした人全てを精神障害者とすると母集団が大きくなり過ぎます。また精神障害者として公的に認定された方だけを精神障害者とするのも実体にそぐわないでしょう。この意味で確率論を持ち出して犯罪一般の議論として「精神障害者は危険ではない」と統計的な論議をすることには本来無理があります。なお、殺人および放火と言った重大犯罪に限れば、精神障害者の犯罪危険率は明白に高まります。しかし私たちの議論は殺人事件に関した精神障害者に関連する法律問題です。そこを間違えないでいただきたいと考えます。法律の本質は統計ではありません。

刑法第39条の問題で私たちが話をすると必ずと言って良いほど聞かされる指摘が学生からもありました。それは「矢野さんの家族は戦っている。罪を犯した人間が相応の罰を受けるのは正しいと私も思う。しかしここまで戦えているのは、知識、人脈があったからこそだとも感じた。病院に対してどのような論理で行動するか。そして先の先まで考えての本の出版といったものは単純にすごいと思った。」です。実は私たちは多くの方々から、特に犯罪被害を受けた経験がある方たちから「矢野さんのような、知識や人脈を持たなかったから」という言葉を聞いています。ここで明確にしておきたいことがあります。私たちは矢野真木人が殺人されて初めて刑法第39条を勉強したのです。それまでは「精神障害者は罪に問われないこともある」ぐらいの知識しか持っておりませんでした。また人脈の問題は、私たちは可能な限り沢山の人々に協力をお願いして、皆さんに「これは社会の問題だ」と共感していただいたところが大きいと考えています。私たちは「矢野真木人の死」を通して「私たちの息子の死は理不尽だ」だけではなくて「日本には精神医療と精神障害者の人権という大きな問題がある」と社会に問いを発してきたのです。そこに多くの方々の共感を得ることができる要素があったと考えます。

学生の意見の中に次のような視点がありました。「この事件は、今まで私の中でずっともやもやしていた『心神耗弱者は減刑』という日本の法律の功罪を改めて考えさせられました。これはつまり『ちょっと考えのおかしい人やキレた人は減刑』ということだ。本当にそれは何か有益性があるのかということだ。」また「今回の講演を聞くまで、私は精神障害者が犯した犯罪は罰しないという刑法第39条は妥当なものであり、そこに疑問を挟む必要性すら、みじんも考えたことがありませんでした。しかし今回の講演を聴いてその認識を改めることになりました。そもそも私が精神障害者を罰する必要がないと思っていたのは、犯した犯罪の重大性も認識できず、仮に懲役などの刑が執行されたとしても訳もわからず暴れるか、無為に時を過ごすのかのどちらかで、決して強制ができないと思っていたからですが、考えてみれば一口に精神障害者と言っても程度に差もあれば、そもそも人の心の状態をそれほど厳密に分類することもたやすいはずはないのです。つまり精神障害者だからといって事理弁識能力がないと言い切ることはできないし、事実講演中の野津被告は自分の犯した罪の重さを認識していたのですから、今回の事件を契機として、改めて精神障害者の犯罪について考え直すべきだとおもいました。」という、これまで持っていた法律家の常識という認識を改めたという意見がありました。

学生は法律に忠実であり良い法律家になろうと希望すればするほど私たちの講演にとまどいを覚えたようです。「法律を学ぶ者からすれば刑法第39条が持つ意味の重要性も分かるので、またさらに複雑な心境になる。自分のした事を認識できない者に刑罰を与えて何の効果があるとの思いもある。」また「普段、私はゼミで話し合いの中で、精神障害者には罪を科さないということについて討論を重ねていますが、精神障害者には罪を科すよりもその障害を治すべきだと言う論理が意見として非常に多く認められます。」さらに「刑法第39条においては私も前々から疑問を持っていた。犯罪の故意があれば刑罰を科することになるが、これは逆に言えば故意がなければ罰しない。つまり心神喪失者の場合、人を殺してようが罪に問われないのである。矢野さんがおっしゃるとおり罰しないことが人権尊重になるとは思えない。危険な条文ではないだろうか。」という踏み込んだ意見もありました。

最後に批判的な意見を掲載します。「刑法第39条に関しては、犯行時の加害者の責任能力から犯罪行為の責任を追及できるかどうかの規定であり、原始的に責任を免除する規定ではない。又、当該規定のレタリング効果は認められるが、そのこと自体は規定の二次的な効果に過ぎないように思われる。それ故、少し論点がずれているように感じた。」実は、私たちはこの最後のご批判の意図を充分に理解できません。加害者の責任能力に限れば、私たちは「野津純一には事理弁識能力があり責任能力があった」および「これまでの精神鑑定や裁判の結果は、充分に事理弁識能力を確認していない」と主張することと矛盾しません。私たちは「責任能力が全くない人間に罪を科すべき」と言っておりません。「犯行時の責任を(事後に)追求できるかどうか」については科学的には矛盾を内在した論理で、事後の作業として客観的に犯行時の責任能力を正確に確認する事は不可能であると再度指摘します。また「原始的に責任を免除する規定ではない」との意見については「原始的」の用語は抽象的ですが「精神障害者であれば誰にでも責任を免除する規定ではない」という趣旨であれば、私たちの意見と変わりません。「レタリング効果」と「論点がずれている」については指摘に論理性と具体性が認められないので困惑します。しかしこの学生さんには「あなたは『精神障害=心神喪失』という短絡した思考にとらわれて論点がずれていると言いたいのではありませんか」と逆に質問します。学校や教科書で学ぶ精神障害は概念です。いま目の前にいる人の状況を指すものではありません。風邪という診断名は共通でも、その具体的な症状を含めて、対象者本人が感じる様子(主観)は全く一人一人異なります。精神障害の具体的な状況とそれに基づく法的責任能力は一様ではないのです。

「刑法第39条が持つ意味の重要性」については、私たちも法的責任能力の有無を厳密に検定することが可能である範囲で「完全に認識能力を失っている者には法的な責任を追及できない」と考えます。しかし私どもが指摘しているのは「日本では安易に心神喪失を認めすぎているのではありませんか」という刑法第39条の規定が事理弁識能力を有した人間にまで拡大されて適用されていた事実です。どうして心神喪失と認められた人間が日本では短期間で社会に参加できるほど簡単に症状が改善するのでしょうか。精神障害者であることは心神喪失や心神耗弱であることの必要かつ充分な条件ではないのです。「ゼミでは精神障害者には罪を科すよりもその障害を治すべきだと言う論理が優性である」と言います。しかしこれは目的外の議論です。精神障害者の治療のために「心神喪失や心神耗弱」を積極的に認定しようとするのでしたらそれは論理が間違っています。「心神喪失と心神耗弱」は刑罰の概念であり、治療を促進するための言葉ではありません。

日本の法律家に問いたいのは法律に規定があることは、それを積極的また安易に適用する事では無いのです。あくまでも、厳正な事実を元にして法律は適用されるべきなのです。イギリスの場合日本の心神喪失と同じように刑法で無罪処分となる精神障害を持った犯罪者は日本の100分の1程度です。なぜそうなるかと言えば、「心神喪失で無罪を法廷で主張すること」は「精神科の高度保安病院で一生涯を過ごすこと」と同義なのです。犯罪者は実質的に終身刑を宣告されると同じ事になる心神喪失無罪を刑事裁判で申告することを躊躇するのです。なぜなら有期刑であれば、医療刑務所で治療を受けて将来自由を得られる可能性があるからです。本来、心神喪失が認められるということは「快復の見込みが無い、人間の心を失うような重大な精神状態が継続していると認められること」なのです。「現在は改善しており精神状態はほぼ正常ですが、殺人事件を起こしたその時は心神喪失でした、裁判では無罪を主張します」と言う程度の精神障害に心神喪失を認める事は安易です。更に日本の判決では精神障害があると必ず「心神耗弱」が付随します。仮に心神耗弱で罪が軽減されて短縮されるのでしたら、その短縮された期間は必ず精神障害の治療のために刑務所に収監される前に精神科の病院に措置入院させて治療を受ける義務を課すのが論理的に整合性がある社会的な措置ではないでしょうか。治療のために必要な時間と責任が軽減されて刑罰が短縮される時間は同等であるべきではないでしょうか。

最後に

私たちにとって法学系の学生の前で講演をするのは初めての経験でした。そして聴講した学生のミニレポートを私たちに届けてくださった龍谷大学に感謝します。学生の意見を読む中で、私たちに批判的な視点からは、今後の裁判で私たちが考えるべき課題を教えられました。また沢山の学生は、矢野真木人殺人事件の刑事裁判で刑法第39条に関連した従来の法律概念が変動していることにとまどいをおぼえつつ、私たちの活動に賛同を示してくれました。その意見を読んで「時代は変わりつつある」と認識を新たにすると共に、心強いものを感じました。最後に一人の学生のコメントを引用して終わりとします。

「裁判の判決に際し、一つの判決をめぐって、解釈次第で多様な方向に向かうのだということを矢野さんの病院を相手どった民事裁判の経過をお聞きして感じました。真実は一つのはずなのに、なぜその様なことになるのか。何気なく見ている新聞などの記事でも被害者が置き去りにされていないか注目して見る眼を養っていきたいと思います。」

龍谷大学の学生の皆さん、ありがとうございました。



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