ホラホラ、これが僕の骨 中原中也ベスト詩集

盲目もうもくの秋

I

風が立ち、なみが騒ぎ、
   無限の前に腕を振る。

そのかん、小さなくれないの花が見えはするが、
   それもやがてはつぶれてしまう。

風が立ち、浪が騒ぎ、
   無限のまえに腕を振る。

もう永遠に帰らないことを思って
   酷白こくはく嘆息たんそくするのもいくたびであろう……

私の青春はもはや堅い血管となり、
   その中を曼珠沙華ひがんばなと夕陽とがゆきすぎる。

それはしずかで、きらびやかで、なみなみとたたえ、
   去りゆく女が最後にくれるえまいのように、
  
おごそかで、ゆたかで、それでいてわびしく
   異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

        ああ、胸に残る……

風が立ち、浪が騒ぎ、
   無限のまえに腕を振る。

II 

これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。

人には自恃じじがあればよい!
そのはすべてなるままだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行いを罪としない。

平気で、陽気で、藁束わらたばのようにしんみりと、
朝霧を煮釜にがまめて、跳起はねおきられればよい!

III

私の聖母サンタ・マリヤ
  とにかく私は血をいた!……
おまえが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまいってしまった……

それというのも私が素直でなかったからでもあるが、
   それというのも私に意気地いくじがなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
   おまえもわたしを愛していたのだが……

おお! 私の聖母サンタ・マリヤ
   いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――

ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
   そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。

IIII

せめて死の時には、
あの女が私の上に胸をひらいてくれるでしょうか。
   その時は白粧おしろいをつけていてはいや、
   その時は白粧をつけていてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に輻射ふくしゃしていて下さい。
   何にも考えてくれてはいや、
   たとえ私のために考えてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、

いきなり私の上にうつして、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土よみぢみちを昇りゆく。

『山羊の歌』より
酷白
酷薄(残酷で薄情なこと)の誤植か。中也の造語とする説も。
自恃じじ
自分自身をたのみにすること。
輻射ふくしゃ
中心の一点から周囲に放出すること。放射。

朗 読

解 説

盲目の秋

「盲目の秋」は、1930年4月『白痴群』第6号に発表した。

「風が立ち、浪が騒ぎ、
    無限の前に腕を振る。」
 
という2行でⅠは始まる。Ⅰで印象に残っているのは、「去りゆく女が最後にくれるえまいのように、」「おごそかで、ゆたかで、それでいて侘しく/異様で、温かで、きらめいて胸に残る……」である。そしてⅡに移るが、ここで転調する。

Ⅱでは「人には自恃があればよい!」が中心である。Ⅲで再び転調して、「私の聖母サンタ・マリヤ!/とにかく私は血を吐いた!……」と始まる。そして「ごく自然に、だが自然に愛せるということは、/そんなにたびたびあることでなく、」と歌う。

中也が泰子に求めていたものが、「母性」そのものであったこと、再求愛のモチーフが母性への回帰で終わることを物語っている。

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